磯子区郷土史研究ネットワーク
資料室_川と海から
「川と海から」-004.旗 塚
滝頭八幡宮の裏手に樹林に覆われた直径10メ-トル、高さ2メ-トルの円墳がある。民家の敷地内で立ち入ることができず正面からは見えないが、裏手にまわると垣根越しに見ることができる。・・・
「川と海から」-014.牛乳ことはじめ
根岸村は牛乳にも縁の深い土地である。横浜で初めて牧畜を始めたのはオランダ人スネルで文久初年のころ、堀川の前田橋の居留地側に「牛乳搾取所」を設け内外人に販売した。 ・・・
「川と海から」-015.掘割川周辺の中小工場群など
明治3年に始まり7年に完成した「根岸堀割川」の工事は前述の通り三つの目的をもっていた。
①稲荷山・弥八ケ谷戸の削平と旧八幡川の開削拡幅によって生じた膨大な土砂をもって、湿地だった横浜新田「一つ目の沼」の・・・
「川と海から」-016.滝頭波止場
湾内で操業する漁船が風浪の激しいときに避難する場所として堀割川の先端に波止場が建設された。
「川と海から」-032.万治病院
(脳血管医療センタ-・環境科学研究所・衛生研究所)
このあたりを字「一丁谷」(いっちょたに)と言った。昭和40年頃の宅造で景観が一変したが人家が少なく行きどまりで、浦舟町の伝染病病院の移転先として申し分なかった。 ・・・
「川と海から」-033.五三前橋(天神橋)、岡村天神旧参道と色天神」
天神橋のもと島田自転車(いまのロ-ソン)の角から「こんにゃく橋」を渡り刑務所の壁に出て滝頭小学校の脇から一の鳥居に通ずるのが天満宮の参詣路で、毎月25日の祭日には朝早くから参詣の人で賑った。 ・・・
「川と海から」-039.蒔田吉良氏
伊勢新九郎は戦国の勇者として関東に勢力を伸ばし小田原を本拠に相模東部においては玉縄城(JR大船駅北側の清泉女子大キャンパスがその跡)をその出先機関として精鋭武士団(玉縄衆)を置いた。 ・・・
「川と海から」-053.埋め地八ケ町周辺と横浜旧市内の「町名」
堀割川掘削が生んだ土砂で吉田新田一つ目の沼が埋められ「埋め地八ケ町」が誕生したがすべて縁起のよい名前がつけられた。
開港期以降の横浜中心地はどこでも町や住民の幸せを願って「佳字」が当てられた。今はない町名が多いがここに記録しておく。 ・・・
「川と海から」-064.新聞広告発祥
新聞に日本語の広告を載せたのは「日本貿易新聞」文久3年9月15日(1863.10.27)号に掲載された手品の広告だが、慶応3年1月中旬(1867).にイギリス宣教師ベ-リ-が居留地83番で発行した「万国新聞紙」はニュ-スのほかに広告欄を設け、外国商館が輸入した・・・
「川と海から」-073.石川代官屋敷・代官坂
長屋門のある大きな屋敷は江戸時代の横浜村名主石川徳右衛門の居所である。ペルリの横浜での交渉のときには警備兵の給食などで活躍しその功により幕府から賞金を贈られた。 ・・・
「川と海から」-078.山手の貝塚たち
外人墓地の最北端(最低地)で生麦事件犠牲者リチャ-ドソンの墓地から左手にあがり横浜気象台から外人墓地正門に続く坂が見尻坂(急勾配で先の人の尻ばかり目につく)で、右手に曲がり料亭「梅林」の前から管理事務所の左を上がる坂道が「貝殻坂」である。 ・・・
「川と海から」-100.ガタクリ馬車と「立場」
明治35年に宮内利七という人が駿河橋から間坂トンネルを経由して杉田まで乗合馬車の運行を初めた。明治39年に市街電車が八幡橋まで延伸されると45年にここから杉田までこの乗り合い馬車が活躍した。 ・・・
「川と海から」-111.山川トンネル・県営間坂トンネル
江戸期から磯子区北部と南部の海岸地域は断崖が海に迫って往来の道がなく、両地域の関係は深くなかった。
長いあいだ内陸部大岡川沿いの「金沢道」が南北の幹線道路で、今の笹下の東樹院周辺に久良岐郡役所・登記所・警察署が置かれ ・・・
「川と海から」-115.旧磯子料亭街跡・偕楽園と関東大震災犠牲者の碑
現在の磯子区役所は埋立て前に浜小学校があった場所だが、その南側の海岸沿いに偕楽園・藤屋・田舎家・雨月荘という料亭が並んでいた。 ・・・
「川と海から」-130.初期「海浜リゾ-トエリア・高級別荘地」としての富岡海岸
富岡海岸は古くから風光明媚の地で、明治以降中央の貴紳顕官、財界指導者、芸術家たちがここで清遊したり別邸を構えたりした。富岡八幡宮近くの金波楼や海宝楼は彼らの好んだ大料亭であった。・・・
「川と海から」-138.横須賀海軍航空隊
日本海軍航空は、アメリカでライト兄弟が飛行してから6年後の明治42年に海軍大尉相原四郎と海軍機関大尉小浜方彦の二人が海軍大学選科生として航空研究を命じられたことから出発する。 ・・・