磯子区郷土史研究ネットワーク
「川と海から」-106.旧磯子区役所跡
(現磯子消防署)・戦時中の磯子区役所
現在の磯子消防署のある場所にかつて磯子区役所があった。昭和2年10月に横浜市で初めて五つの「区」が誕生したがそのひとつ「磯子区」の区役所が同年11月に建てられ昭和42年まで磯子区民に広く愛された。区役所の前に市営バスのタ-ミナルがあって区内や中心部でのバスが発着していた。
磯子区は昭和2年10月1日「区制」施行時は鶴見、神奈川、中、保土ケ谷、磯子の5区だったが、14年4月1日に港北区・戸塚区が、18年12月1日に南区、19年4月1日に西区が誕生した(昭和11年10月に当時の金沢町・六ツ浦荘村が磯子区に編入され、また23年5月15日に磯子区から金沢区が分離独立した)。
戦時中の分区は物資の配給、治安、防空などの見地から当時の警察署単位にそれぞれの区が分けられたのである。今の庁舎に移転する前の区役所は現在の磯子警察署の向かい角にあった木造二階建てで、入口の回転ドアが当時としてはハイカラであった。敗戦までの区役所には「兵事課」という部署があって召集令状の発行手続きをしていた。いわゆる「赤紙(赤い色の召集通知状)」の発行事務である。係の人はそれを受け取る家族の顔をどんな気持ちで考えただろうか。
昭和17年に磯子区役所が全区役所に先駆けてやったのは区民への2万9千個の防毒マスク支給と使用法の講習会であった(市内では合計31万8千個)。マスクは納税額に応じた代金が徴収され、町内会を通じて配給切符引き替えに配布された。実際の空襲ではガス弾が落ちることなく幸いにもマスクが使われたことはなかったが、当時の日本軍が中国大陸で使用していたのでアメリカも使うにちがいないと軍部が考えたのある(実際にアメリカもその用意をしていた)。
また区役所の中に「毒ガス試臭室」「防毒面実験室」が設けられ、イペリット、ルイサイト、塩素ガス、ホスゲンガスなど何種類かのガスを区民に嗅がせてその種類や毒性を市民に教えた。現代では考えられないことである。
【参考】
昭和25年3月1日発行「月刊よこはま(今の広報よこはま)」磯子区特集号に「磯子区役所機構便覧」があるので転記しておく。所在地磯子区字禅馬1電話3局1231職員全員113名地区事務所根岸・滝頭・磯子・屏風ケ浦・上笹下の5地区磯子区世帯数14,976、人口62,273(25年2月1日現在)
戦争が激しくなると軍需工場や一般家庭の疎開が始まりまったが役所も例外ではない。中枢の市役所はいち早く野毛の老松小学校に移り南区役所、西区役所、神奈川区役所などはより安全な近くのコンクリ-ト建物に移った。そのほかの区役所も比較的安全な場所に疎開先が内定していた。
磯子区役所の予定地は金沢区町屋町(現在の洲崎町)の「龍華寺(りゅうげじ)」で、ここは本堂も大きく広い庭があったことによる。当時は今の金沢区も磯子区に含まれていたので町屋への疎開も不自然ではなかった。ただ実際には移転作業が始まる前に敗戦となったので区役所の疎開は実現しなかった。