磯子区郷土史研究ネットワーク
資料室_山の手散策
002.大丸谷震災慰霊地蔵
安政6年の横浜開港とともに多くの外国人が居留地に住みついたが、貿易に従事した欧米人はアジアにおけるそれまでの根拠地香港から多くの中国人を連れてきた。初めて日本人と取り引きするにあたって同じ文字を使い日本の事情に多少は明るい中国人が窓口役として便利だったのである。・・・
山の手散策-003.大丸谷チャブ屋街
ある時期横浜の夜の雰囲気を代表した「チャブ屋」をどう表現したらよいか非常に困惑を感ずる。「戦前まで本牧にあった外人相手のあいまい宿」というのが一般的な説明のようだが、たしかに本牧に集中していた時期もあったが、大正8年に市内各所にあった同業を本牧「原」と「小港」付近に26軒、ここ大丸谷に16軒集めて営業させたとあるから、厳密に言えばそれ以前とその後とでは営業形態にか
山の手散策-009.山手の坂
山手丘陵は大きく見れば現在の「港の見える丘公園」を屈折部として南と東に「L」状に伸びている。南側はワシン坂によって小港に下り東側は稲荷坂によって中村・蒔田平地に通じている。丘陵中心部を貫く軸が山手本通りで、この軸線から両側の平地に向かっていくつもの谷戸がありそれぞれが坂道をもって交差しあっている。開港以前は麓の村人たちが農作業のために丘陵の田畑に通う程度の
山の手散策-016.汐汲み坂
フェリス女学院の脇から商店街にくだる坂が汐汲み坂である。干ばつに悩む丘陵の田畑に塩水を運んだことによるとの説もあるが、農作物は塩分を嫌うはずだからこの説はうなづけない。前記小寺篤氏は「私の素朴な推理であるが、もとはこれが『汐見坂』であったのではないか」と言っておられるが、戦後最初の磯子のニュ-タウンの名称も「汐見台」であったことを考えれば納得できよう。
山の手散策-017.元町女学校跡と中島敦文学碑
汐汲み坂の途中両側の元町幼稚園のあるところが戦前の「元町女学校」跡である。戦災に遭い第一高女の間借り生活をしていたが、岡村の横浜中学(現横浜高校)が敗戦で空き家になった谷津坂の大日本兵器徴用工宿舎に移転したあと岡村に移転そ現在に及んでいる。元町女学校の創立者は当時の県会議長田沼太右衛門で、早くから県立女学校の設立を主張していたがいつも時期尚早として
山の手散策-018.百段階段と薬師堂あと
堀川にかかる前田橋(前田は横浜村当時の字名)から商店街を越えて丘陵(この付近を浅間山と言った)につきあたるところの上に大震災まで弁天社がありその境内に薬師堂があった。前述の堀ノ内宝生寺の「横浜」名初出文書で寺領寄進とあるのがこの薬師である。開港以来関内の芸妓衆の信仰篤く、もの日には晴れ着の女性で賑ったところから「色薬師」と呼ばれた。
山の手散策-019.横浜の西洋家具
開港前の横浜港周辺は砂州の上に僅かの戸数の横浜村があり中央部に水神の森(現在の開港資料館付近)、突端に弁天社があった。開港に伴い水神の森の脇に貿易事務を扱う運上所、その前面に波止場がつくられ、それより西の砂地が日本人居住区、東の畑地が外国人居留地と定められた。居留地に住んでいた村民はこの山手麓に移住させられたが、それが発展して「元町」となったものである。
山の手散策-020.石川代官屋敷
長屋門のある大きな屋敷は江戸時代の横浜村名主石川徳右衛門の居所である。ペルリの横浜での交渉のときには警備兵の給食などで活躍しその功により幕府から賞金を贈られた。また明治になってからも横浜の政界、実業界で重きをなした。
商店街からこの屋敷前を通りトンネルの上を経て北方町に抜ける幹線道路の元町側が代官坂と呼ばれている。
山の手散策-021.「大正活映」撮影所跡
大正活動写真株式会社のちに大正活映画(略して大活と言った)の創立は大正9年4月20日で、資本金20万円、実質的東洋汽船財閥の総帥浅野良三(浅野総一郎の二男で天洋丸、地洋丸、春洋丸などの当時最大の豪華旅客船オ-ナ-)である。外国人乗客のためニュ-ヨ-ク封切り映画を買い込み船内で上映していたが、日本国内上映のための輸入・興行を思いつく。
山の手散策-022.ジェラ-ルの瓦製造所跡・水屋敷跡
ジェラ-ルがいつ日本に来たか、どういう前歴か、一切不明でいつ帰国したかも定かでない。係累も財産も共同経営者・部下もわからない。ただ居留地や山手の各所にはGERARDとかジェラ-ルとかの名と1873、1876、1878などの製造年の入った様式瓦が伝世品や発掘品としていつでも目にすることができる。彼が横浜の元町で船舶用飲用水販売と西洋瓦製造をしたことだけはまちがいない。
山の手散策-023.西洋塗装発祥地の碑
特にこの場所と特定できないにもかかわらず「横浜もののはじめ」として建立された碑がこの塗装業碑と、もうひとつ谷戸坂にあるクリ-ニング発祥記念碑である。
碑文にいわく。
「本邦における近代塗装業の由来を尋ぬるに嘉永六年正月米艦来航に際し米国使節接見のため神奈川宿に交易談判場を急設
山の手散策-024.元町プ-ル
山手丘陵のふもと一帯の湧水は「天沼びあ酒」「打越の霊泉」「ジェラ-ルの水屋敷」などのほかプ-ルの源泉にもなった。昭和3年に横浜市連合青年団が御大典記念事業としてプ-ル建設を計画する。昭和5年6月1日にわが国最初の公認プ-ルが誕生した。4947坪の土地に長さ50メ-トル、幅20メ-トル、水深最大5メ-トル、最浅1.3メ-トルという当時の最高設備を誇るものであった。
山の手散策-031.山手外人墓地
最近は「外人」という表現を憚って「外国人墓地」という(長崎では国際墓地と言うようである)。「外人」「異人」は横浜では長く通用し格別差別意識があったとも思われないので敢えて外人墓地とする。
安政元年(1854)に二度目に来航したペルリ艦隊の水兵が戦艦ミシシッピ-のマストから転落して死亡した。
山の手散策-032.山手貝塚
外人墓地の最北端(最低地)で生麦事件犠牲者リチャ-ドソンの墓地から左手にあがり横浜気象台から外人墓地正門に続く坂が見尻坂(急勾配で先の人の尻ばかり目につく)で、右手に曲がり料亭「梅林」の前から管理事務所の左を上がる坂道が「貝殻坂」である。
山の手散策-040.フランス山とトワンテ山、英仏軍駐留地跡・その確執
埋立地の外国人居留地は開港からの急成長で手狭になり幕府は山手に新たな居留地拡張を認めざる得なくなった。実際低湿地の平地部より眺めはよく木々の緑もすばらしかった。北方村の農地だった丘陵も次ぎ次ぎに平らになって見慣れぬ住宅が建設された。開港3年目の文久元年(1861)に127人だった(順は英米蘭仏)がその二年後には209人、さらに生糸や茶の輸出景気にあおられて
山の手散策-042.バルタ-ル・パビリオン(バリ市場)のアングル
かつてここにはフランス領事館があり、また幕末にフランス軍が駐留した場所である・昭和56年11月フランスにちなんでパリ中央市場の地下に使われていた構造物が移設された。鉄の柱にア-チ型の梁を対角線に組み合わせたもので、色は当時と同じ青緑色で塗られている。設計者のバルタ-ルは19世紀中頃にフランスで活躍した著名な建築家で、代表作であるパリ中央市場や
山の手散策-043.横浜氷会社・横浜アイスワ-クス跡
市営地下鉄の「元町・中華街駅」建設工事現場」は以前日冷の製氷工場があった場所だが、その隣りは明治元年に中川嘉兵衛が「横浜氷会社」をつくった場所である。岸田吟香も彼のパ-トナ-で、その日記「横浜異聞」の明治2年の部分に、
「元町の中川嘉兵衛さんはふるくよりこゝろやすくする人なり。