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山の手散策-018.百段階段と薬師堂あと

 

 堀川にかかる前田橋(前田は横浜村当時の字名)から商店街を越えて丘陵(この付近を浅間山と言った)につきあたるところの上に大震災まで弁天社がありその境内に薬師堂があった。前述の堀ノ内宝生寺の「横浜」名初出文書で寺領寄進とあるのがこの薬師である。開港以来関内の芸妓衆の信仰篤く、もの日には晴れ着の女性で賑ったところから「色薬師」と呼ばれた。岡村天満宮が「色天神」と呼ばれたのと双璧をなしている(「色薬師」にはここで外国人と日本娘とのラブロマンスがよく生まれたためとも言う)。大震災によって有名な百段の石段が崩壊し、そのあとはかつての姿を全くとどめなくなった。「私たちは山手のずっとはずれたところの、神社がひとつと伝説のある茶屋一軒がある浅間山かた下方の第二の橋(前田橋)の対岸にある元町へと百の階段が急角度で結んでいる見慣れた地点にたどりついた。階段とそれがついていた崖の半分はすでになく、崩れ落ちて下の家々を覆って見えなくしていた。目くるめくような傷あとと、ひとつの土の湖山だけがその地点に残っていた。火はなおも私たちの足下をなめるように追って来たので、私たちはもうひとつブロック先へ急ぎ、昔の人々にはヘクト坂としてしられる代官坂の方へ曲がった(O.Mプ-ル「古き横浜の壊滅)」。

 また「横浜どんたく」には次の古老の話が載っている。

 「前田橋の山の上に祭るは仙元宮(浅間宮)にて実に尊き御神なり。元は当村中に御座候所異人館出来に付当山に移し玉ふ。是より見はらす景色は異人館を不残目の下に見下し、夫より御運上所御屋敷様より本町、弁天通、太田町とも手の平に見るかごとし。向は戸部御屋敷より神奈川宿旅籠の部屋部屋より台町の座敷の家風まで悉くみゆるなり。又右の方に増徳院の三法にかない、左りの方は港崎の廓にて、その全盛に遊ふが如へおもはれける。海の方には五ケ国の船々入ましりて、都て二里四方を目の前に見渡し、当所随一の見処なり。当神社前の石坂は御水主頭取勘次郎一手の寄進なり」

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