磯子区郷土史研究ネットワーク
山の手散策-022.ジェラ-ルの
瓦製造所跡・水屋敷跡
ジェラ-ルがいつ日本に来たか、どういう前歴か、一切不明でいつ帰国したかも定かでない。係累も財産も共同経営者・部下もわからない。ただ居留地や山手の各所にはGERARDとかジェラ-ルとかの名と1873、1876、1878などの製造年の入った様式瓦が伝世品や発掘品としていつでも目にすることができる。彼が横浜の元町で船舶用飲用水販売と西洋瓦製造をしたことだけはまちがいない。先人の考証だけ記録にとどめておこう。
「横浜開港ののち外国人がつぎつぎ来日したので自然に西洋建築が盛んに行なわれ始めた。そのころ仏人ジェラ-ド(ジェラ-ルの誤り)という者が現在の元町一丁目増徳院の右方、谷手という地(山手188番)、すなわち現今の元町プ-ルの所在地近辺に製造所を新設し洋風の瓦や煉瓦石の製作を始めた。今も付近には製作品の破片が多く存在するが、その中には一八七八年などと製作年号を印したものが見出される」(横浜市史稿)
「中区外人墓地脇(山手77番)に俗称煉瓦屋敷というあり。その昔仏人ジェラ-ルが在留外人の需要に応ずるため煉瓦および屋根瓦を焼きし窯跡にて、その廃棄遺物、こんにちなお累々たるを見る。屋根瓦にはヨコハマジェラ-ル、一八七三・一八七六・一八七八などの記載あるものもあれば、明治6年より6年間継続して焼けるもののようなり」(石井研堂・明治事物起源)
「日本における西洋瓦の製造は明治の初年渡来した仏人アルフレッド・ジェラ-ルが元町西谷戸異人墓地付近で洋風瓦の製造を開始し、明治5、6年頃から同20年頃まで続けていた。ジェラ-ル屋敷は大正12年震災に倒壊して跡形もなく、先年市で元町プ-ルを建設するとき地中に埋没していたジェラ-ル瓦が掘り出された。その他山下町や居留地の外人邸宅はみな震災でつぶれたが。この瓦の絶滅を惜しんで収集珍重するものが多くなった」(藤本実也・横浜開港文化の魁)
ジェラ-ルは瓦の製造だけでなく、この谷戸の豊富な湧水に目をつけて船舶への給水の事業もはじめた。地元ではこの作業場を「水屋敷」と呼んだ。大量の湧水を1メ-トルの溝を掘って堀川のはしけにつなげたのである。のちには配水管となり掘川にはいつも50トンほどの「水船」が給水を待ち、ポンポン蒸気船がこの水船を曳いて沖の船に向かった。この休水業はのち日本人の手に移るが、震災のあとは水道局の所管となる。水質は極めて優良で「横浜の水は赤道を越えても腐らない」と各国の船の間で有名だった。
ジェラ-ルについては最近に至っても新資料が現れず上記考証以上には出ない。したがって飛鳥田一雄氏のように推理エセ-「三人ジェラ-ル」などを書く人も出てくるわけである。