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山の手散策-031.山手外人墓地

 

 最近は「外人」という表現を憚って「外国人墓地」という(長崎では国際墓地と言うようである)。「外人」「異人」は横浜では長く通用し格別差別意識があったとも思われないので敢えて外人墓地とする。

安政元年(1854)に二度目に来航したペルリ艦隊の水兵が戦艦ミシシッピ-のマストから転落して死亡した。航海中なら水葬礼で葬るところだが入港中のため海の見える陸地に埋葬したいという申し入れがあり幕府は当時は増徳院所有地だったこの丘陵に埋めた。後に伊豆玉泉寺に移葬されたがこの水兵が外人墓地埋葬の第一号である。

 その後居留民の増加につれ墓地の協議が進められ、5,600坪が墓地として無償で提供され管理運営が「管理委員会」に任されることになった。当初から中国人(清国人)は排除されたので中国人墓地を専用した。関東大震災のあと狭隘化したので中区大芝台に新た外人墓地(地蔵王廟)をつくったが、こちらは市営で衛生局が管理している。

 一方英連邦墓地が保土ケ谷区狩場町にある。これは戦時中の児童公園の一部である。外人墓地の正門は外国野宮殿を思わせる荘重な鉄扉がはめられているが、これは敗戦の半年前に強制的に供出させられ、戦後つくりなおしたものである。門柱には昭和43年11月29日明治百年を記念して日英語で鎮魂の詩が碑文として刻み込まれた。ト-マス・グレ-の詩である。

「美人の栄華富豪の驕奢孰れか無常の風に逢はざらん光栄の路向ふ所は墳墓のみ」。

またその下には

「百二十五年を古るこの墓に眠れるは

 かなたより東の国をおとない

 こなた母なる大地に逝きし四十一国(よそひとくに)の異邦の魂

 彼らはるかなる異邦より豊かなる訪れをもちきたり

 東のはてに第二の母なる国を見出たり

 現世のはかなきを嘆く魂も今は安らかにここに憩う

 彼らの願うはたまさかなる追憶ならんや

 世を去りし人々にこの地静けき眠りを与えん

 明治始まりてより百年を数うるこの年一九六八年にこの碑を立つる

 そは我らささやかなる礼を捧ぐるものなり」

 

 現在この外人墓地の墓石は約2,500、埋葬記録は4,500を越えているが、その一人一人が横浜の歴史とともに歩いた方々で、個人別に業績を挙げるのはこの資料では不可能である。生出恵哉氏の「横浜山手外人墓地」には61人を選び「攘夷の刃に倒れた人たち」「お雇い外国人たち」「居留地の人たち」「居留地の商人」「珍しい商売をはじめた人たち」「伝導に尽くした人たち」「女子教育の貢献者たち」「日本の男子を指導した人たち」「芸術・音楽・スポ-ツの世界」「事件・事故の犠牲者たち」「外人墓地に眠る女性たち」に分類しているが、一読すれば開港からの横浜がどれだけ深く海外諸国とかかわってきたか理解できよう。また正門を入ったところに資料室があり著名埋葬者の事跡や西欧の墓制についてのパネルが展示されていて理解を深めてくれるので見学されたい。特に埋葬者の信仰する宗教宗派のちがいによって墓石も異にするのは日本人にとって興味深い。

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