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山の手散策-019.横浜の西洋家具

 

 開港前の横浜港周辺は砂州の上に僅かの戸数の横浜村があり中央部に水神の森(現在の開港資料館付近)、突端に弁天社があった。開港に伴い水神の森の脇に貿易事務を扱う運上所、その前面に波止場がつくられ、それより西の砂地が日本人居住区、東の畑地が外国人居留地と定められた。居留地に住んでいた村民はこの山手麓に移住させられたが、それが発展して「元町」となったものである。

 ここは山手と山下の二つの居留地にはさまれていたので、外国人の需要に応ずるための商人や職人の町として発展した。また日本人に西洋の生活文化を伝える役割も果たした。クリ-ニング、西洋古着商、時計商などがこれだが、外国人住宅の家具を修理しているうちに技術を習得した人たちによって元町家具と呼ばれる西洋家具の製作が行われるようになった。元町の表通りは商店が軒を連ね家具職人たちの住まいや工場は主としてこの裏通りにあった。

 西洋家具には創始者たる個人の名は残されていない。昔からの日本式家具を製造して来た無名の工人や大工たち(宮大工が多かったという)が外来文明に刺激され集団的に創り出されたものだからである。「家具」はファ-ニチャ-という英語が翻訳されて生まれた言葉で、それ以前の日本には家具という言葉すらなかったのである。

 デスク、キャビネットなどは日本にも机や箪笥という類似品があった。しかし「チェア-」というものは畳の上に座る文化が床の上で腰かける文化に触れ、その生活用式を日本人が受け入れることによって初めて誕生した。それまでも武家の「しょうぎ」や僧侶の「きょうろく」や、裕福な武士・商人が腕をもたれかけさせる「きょうそく」はあった。しかし「腕かけ」「背もたれ」が一体のものになり、しかも足がついて室内の床の上で使用される「チェア-」はそれまでの日本人の生活にはなかった。開港前年の幕府役人とハリスとの修好通商条約交渉の光景を写したヒュ-スケンのスケッチには、双方同じ高さの箱の上に日本側は膝を折って座りハリスは腰かけるという対照的な姿が見られるが、開港後開設された横浜運上所には早くも板張りの広間にチェア-が置かれた。明治4年に官公庁で西洋式椅子が採用され、翌年の学制発布でも寺子屋方式を一新し教室に机と椅子のセットが導入された。開港場の日本人商店、町会所、銀行でも同様で、軍隊や殖産工場では国家的規模でこのスタイルが確立され国中に普及されたのである。新様式は公共建物だけでなく貿易商の自宅や別邸を中継地にして一般日本人家庭にも徐々に浸透して行った。

 明治5年には元町にすでに3、4軒の西洋家具製作者がいて主として外国人相手に営業していたというが、外国人居住者の増加、日本側需要の増加により立地条件のよい元町界隈は短時間で西洋家具製作の中心地になった。職人たちは外国船や外国商館で仕事をしながら脳裏に刻んだ机や椅子のかたちを店に帰ってすぐ絵図面に起こした。外人家庭から払い下げられた家具は分解されホゾ組みの教材になった。特に従来の直線断ちの和家具とちがう豊富な曲線やアラベスク模様に職人たちは目を見張った。腰、腕、背中など人体の重量のかかる部分がカ-ブ材や装飾材で巧みに受けとめられているのを知って驚異の念を持っただけでなく、造形の意欲を激しくかき立てられたのである。曲線・曲面を削り出すには材料もかなりの分量になる。三次曲線・曲面ではなおさらだ。しかもどんな姿勢を取ろうが重心はきちんと受け止めなければならない。幾何学や力学の素養などあるはずもないのに、その微妙な「かたち」を造り出す‥‥椅子専門の職人は箱ものの職人と違った創造の誇りと心意気をハッピの下に秘めていた。

 表通りの家具商が請けた注文は裏通りの職人によって製作された。指し物、挽き物、塗り師、椅子張り、飾り屋、彫刻などに分業され、それぞれの親方の下に職人や徒弟がいた。家具商はそれぞれ専属の職人を系列化して持ち、また親方はそれぞれ二軒ぐらいのオタナを持っていた。問屋制家内工業は戦後まで続いたが1960年代以降の元町は解体しヤングとファッションの町に変貌する。戦争に伴う職人の流出、大量生産・大量販売への時代の転換、家具商の転廃業にともなう連鎖廃業などが続く。今は公園入口の後藤木工所、大通りの(株)竹中あたりにわずかに面影を残すのみである。(葛城峻「マイウエイ渡世旅日記鈴木英雄自分史」をご参照ください。磯子図書館蔵)

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