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山の手散策-003.大丸谷チャブ屋街

 

 ある時期横浜の夜の雰囲気を代表した「チャブ屋」をどう表現したらよいか非常に困惑を感ずる。「戦前まで本牧にあった外人相手のあいまい宿」というのが一般的な説明のようだが、たしかに本牧に集中していた時期もあったが、大正8年に市内各所にあった同業を本牧「原」と「小港」付近に26軒、ここ大丸谷に16軒集めて営業させたとあるから、厳密に言えばそれ以前とその後とでは営業形態にかなりのちがいがあろう。実際には開港直後から波止場周辺や南京町にはこの種の店が並んでいたのである。大震災以降「本牧チャブ屋」に代表されるそれを「あいまい宿」と称したところでなにがどの程度あいまいなのかよくわからないのだから、こんなあいまいな定義はない。

 種々の記録から本牧チャブ屋を復元すれば、基本は洋式スタイルで、一階にはフロア-があって待機中の女性とダンスができることを原則とした。カウンタ-での飲酒・軽食も可能である。訪問客はそれだけを楽しんで帰ってもいいし、気が向けばダンサ-と二階の小部屋に籠ってもいい。つまり性的サ-ビスはあくまでも選択肢のひとつであって、それをストレ-トに目的とするものではなかった。「遊ぶ」ということの中に幅のある選択が認められていた点が大正から昭和のモダンなインテリ層に受けた理由だったのである。

 「チャブ」とは食事を意味する横浜語だが、開港期の外人遊歩道の路端に休憩所として生まれたのがチャブ屋の起源である。天然自然のことわりでここでは次第に若い女性を侍らすようになった。この種の施設は当然ながら訪問客・接待側両者の文化レベルに比例して相乗的に劣化する。外国船の寄港が増えるにつれて波止場周辺にも見られるようになり船員を相手に営業したようだが、長い航海の末の若い船員にとっては「前略・中略」で、最終目的は最初からきまっていたはず。波止場付近のそれと同様に多くは下級船員、中国船員を客とした大丸谷は大正~昭和前期の本牧チャブ屋とは似て非なるものがあり、外人でも港崎町や吉原町のような和風になじみにくい層の欲求を対象としたもので、女性たちも「ハンブルグの飾り窓」や「永真」のそれと大差なかったはずである。

 伝統的花街には三業地と二業地の別があって明確に物的な、また官憲の管理上の区分があった。置屋、料理屋、待合の三種混合が三業地で待合を欠くのが二業地である。磯子花街は二業地で、このことは八幡橋の八幡神社境内の御大典記念碑(台座の上の錆びたブイがバスの窓から見える)の献納者として「磯子二業組合長葦名金之助」の名が記録されている。三業地には待合があるから風紀が悪く二業地にはそれがないから健全であるなどとは誰も言うまい。磯子に待合がなかったのはそれだけ余裕のある裕福な層以下の客を対象にしていただけであって、割烹旅館や出会い茶屋はこの近くのあちこちにあった。料理屋の二階も結構そのニ-ズを充たしてくれたのである。二業にしておいた方が世間知らずの奥方には通りがよかったのかも知れぬ。「出会い茶屋」が必ずしも茶だけ飲んで帰ってくる場所でないように、名前だけで内容を判断するのは危険である。チャブ屋にしても、震災の前と後、本牧と大丸谷、明治期と大正期、それぞれの時間的推移、ロケ-ション、客層などがちがうのだから「あいまい宿」では何も言っていないに等しい。

 本牧チャブ屋が当時の世相で代表格とされたのは、江戸時代の吉原・島原のように「ソレ以前の情緒世界」、つまり「粋」「遊びごころ」がモダンな衣裳で再現されたからではなかろうか。つまりある時期の本牧以外の「チャブ屋」は用語上の偽装に過ぎず、遊廓という名がストレ-トな目的を過剰に示していることに対する相互欺瞞であった。大正デモクラシ-の余韻も消え恐慌を経て国民精神再編成の時代になれば、当然のことだが富国強兵・追いつけ追い越せの合い言葉に付随して「遊び」や「粋」の精神は遠ざけられ、「まじめ」「一生懸命」が最高の価値観となる。天然自然のことわりも選択肢を失い、特化・純化されるのである(日本国民は遊ぶときにもまっしぐらに真面目に遊ぶことを要求される。喩えは悪いが旧軍で兵士に支給された衛生器具の名称が「突撃一番」であったことは象徴的である)。

 閑話休題。本牧の代表が「キヨ・ホテル」「スタ-・ホテル」とすれば、ここでは「オリエンタル・ホテル」がそれであった。年齢的にその時代に生まれあわせていない筆者としては説明に苦しむばかりなので、ここは重富昭夫氏の「横浜『チャブ屋』物語」から引用させてもらうことにする(ちなみにこの本には当時の大丸谷のチャブ屋の名が、上記以外に「バイオレット」「サイ」「旭館」「トウキョ-」「ジャパン(ナンバ-・ナイン)」「三浦」「ミネ」「パナマ」「キミ」「ライト」「テボリ(これについては次の白秋の項参照)」「ブルックリ-」「ニュ-ヨコハマ」「カマクラ」「大丸」「森野」と16軒のすべてが挙げられている。

 「ふと私(重富)はそのオリエンタル・ホテルの前から港の方角を見渡した。ビルが林立していて、視界は遮ぎられている。このビル群がなければ恐らくメリケン波止場は一望できるであろう。あの『別れのブル-ス』は、ことによるとこのあたりチャブ屋を舞台にしたのかも知れない。そして女は今日の出船はどこへ行くむせる心よはかない恋よと男を見送ったのだろう」

 JR石川町駅の裏手から山手に食い込んだ谷戸が大丸谷で、JR線側の広い坂が大丸坂、途中から左折し反対側を上る狭い坂が土方坂である。女学生の通学路としてその名がふさわしくないため使われなくなったが、開港期以降の港湾荷役労務者や埋立工事作業者の供給・管理にあたった鈴村要蔵の人足部屋があったところからその名が生まれた。肉体労働に対する差別感から土方の名は卑しめられてきたが初期横浜の都市化の下支えをして来たのが彼らである。中村・山谷・八幡の周辺にもこういう集落があったので、それらに通じている現在の東橋も大震災頃までは「土方橋」の名で通って来た。

 関東大震災は地盤軟弱な横浜埋立地を壊滅させ多数の死者を出したが、大丸坂は避難の群衆が火の手に煽られて多数焼死したところで、土方坂への別れ道の下にそのときの犠牲者の慰霊のための地蔵堂がある。碑文には次のように記されている。

 1923年(大正12年)9月1日午前11時58分関東全域にわたって大被害をもたらした関東大震災は、震源地を相模湾の北西部あたりの海底と推測され、北海道沖縄にいたる地域でも人体に感じ、全世界の地震計に記録とどめ、死者99,331名、負傷者103,733名、行方不明者43,476名の大地震であった。

 当時この付近一帯は各所より発生した大火災により一面火の海となり、避難民は高台(山手13番)の安全地帯を求めて大丸谷道路上を山に向って殺到した。その数約300名、しかし下方より吹き上げる火焔は物凄く、道路上は忽ち灼熱地獄と化し、前進を阻まれやむなく右手の崖を草の根につかまりつつわれ先にと登りはじめたが、後続の避難民は火焔にあぶられ、熱さを耐えかね、つつじの灌木の中に身を伏せたりしたが、後方より迫る火勢には抗しきれず、ついに27名は二度と帰らぬ犠牲者となった。震災五拾周年にあたり尊き人命を失った方々の霊に対し改めて冥福を祈るものであります。

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