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山の手散策-020.石川代官屋敷

 

 長屋門のある大きな屋敷は江戸時代の横浜村名主石川徳右衛門の居所である。ペルリの横浜での交渉のときには警備兵の給食などで活躍しその功により幕府から賞金を贈られた。また明治になってからも横浜の政界、実業界で重きをなした。

 商店街からこの屋敷前を通りトンネルの上を経て北方町に抜ける幹線道路の元町側が代官坂と呼ばれている。開港後奉行所は市街を区分して数名の名主を置き、名主の上に総年寄を置いた。徳右衛門は保土ケ谷宿名主苅部清兵衛とともに横浜村総年寄に任命されるが代官ではないた。第一、横浜村は神奈川奉行所の預かりだから、そもそもここには「代官」という人物はありえなかった。したがって「代官坂」は明らかに誤りである。石川家の以前の屋敷は谷戸橋に近いところにあり、ここにはオランダ人貿易商ヘフトが住んでいて坂の名前もヘキ坂(ヘフト坂が訛ったもの)と呼ばれていたのである。石川家がそのあとに移ったのは明治10年代で、すでに「代官」という言葉自体も死語になっていたであろう。「横浜山手」の著者鳥居民氏は「私たちの性向の中にある権威に従属的面」を指摘しているが、このへんの人々は「なんとなく偉い人」という程度の意味で使ったのであろう。

 嘉永7年4月、ペルリが横浜村に上陸したとき幕僚とともにこの屋敷を訪れた記録が「ペリ-艦隊日本遠征記」に残されている。以下は同家ならびに道筋での一行の印象である。

「提督と士官たちはこの村の行政長官である村長『横浜村名主徳右衛門』の家に案内された。この役人は非常に丁重に一行を出迎え、自宅でもてなしてくれた。家の内部はきわめて質素で、大きなひとつの部屋に柔らかい畳が敷いてあり、油紙の窓から明かりをとり、ぞんざいに描かれた絵がかけてあり、例のごとく赤い腰掛けが設けられていた。まもなく村役人の妻と妹が茶菓を運んで来て、おずおずと微笑んで訪客たちを歓迎した。彼女たちは裸足で、脚はむき出しであり、二人ともほとんど同じような服装だった(中略)。尊敬すべき村長は賓客のために茶、菓子、糖菓、そしてこういう席には欠かせない酒などの軽食を用意していた。酒と一緒に温かいワッフルのようなものが出たが、これは米粉でつくってあるようだった。村長は巧みに妻や妹の手を借りながら、自らかいがいしく茶菓を配った。女たちは外国人の前でずっとひざまづいたままだった(中略)。村長夫人は大変如才ない女性で、自分の赤ん坊を連れてくるほど人が良かった。賓客たちはこの赤ん坊を精一杯褒めるべきだとは思ったが、顔は垢じみ、見かけが全体にぶざまなので、抱いて可愛がるのにひと苦労した。糖菓をひとつ与えると、この幼児は剃った頭を下げるようにと言われた。幼児が年に似合わず丁寧に頭を下げると、居合わせた母親と婦人たちの顔が誇りと賞賛の表情でいっぱいになった(中略)。

 小さな町の住人たちは、役人、商人、労働者の三つの主な階級に分かれているとうだった。下層の人々もほとんど例外なく豊かで満ち足りており、酷使されているようには見えなかった。貧困を示すものはあるが、乞食は見かけなかった。人口が過剰なヨ-ロッパ各地と同じく、女たちが畑を耕している姿をよく見かけ、この人口の多い帝国では誰もが勤勉に働く必要があることを示していた。最下層の階級でも身なりはこざっぱりとしていて、簡素な木綿の衣服を着ていた(中略)。日本社会には、すべての東洋の国民にはない優れた特質がある。それは女性が伴侶として認められ、単なる奴隷としては扱われていないことである。女性の地位がキリスト教の規範の影響下にある国程高くないのは確かだが、日本人の母、妻、娘は中国とはちがい、動産でも家内奴隷でもなく、トルコノ家内ハ-レムに買われた女性のような気まぐれな快楽の対象でもない。一夫多妻制度がないという事実は、日本人があらゆる東洋諸国民の中で最も道徳的で洗練された国民であるという、優れた特性を示す顕著な特徴である。この恥ずべき習慣がないことは、女性の優位性ばかりでなく、家庭道徳が広く普及しているという当然の結果にも現れている」。

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