磯子区郷土史研究ネットワーク
「川と海から」-051.横浜の歓楽街の変遷
横浜公園は明治9年(1876年)開園の日本最初の洋式公園で、それまでに出来ていた山手公園が外国人専用であったのに対し内外人が共同で使ったため「彼我公園」とよばれた。もと太田屋新田の一部の湿地を埋め立てたもので、開港当初はここに港崎遊廓(みよざき、のちにこうざき)があり、現在も一隅に当時最大の岩亀楼の石灯篭が保存されている。
安政6年太田屋新田のうち1万4千坪を指定し、出願者北品川の妓楼主岩槻屋佐吉に貸与して外国人用遊廓を建設させたが、建設が始まってすぐ開港となったので、集めた娼妓たちは運上所わきの仮建築の外人用貸長屋24棟の3棟に収容され、開港後8日目に仮営業を開始したという(港崎廓駒形町仮宅)。
港崎遊廓は開港の翌年万延元年に完成したが、鈴木屋「五十鈴楼」、岩槻屋「岩亀楼」は遊客以外にも内部を有料で見物させたほどの広壮な建物で、京の島原、江戸の吉原に匹敵する大遊女街であった。明治2年(1869)には妓楼18軒、遊女424人、その他84軒準遊女63人だったという。なお「岩亀楼」の名は佐吉の出身地で屋号でもある「岩槻」を音で「がんき」と読み、それに「岩亀」の字を当てたものである。また高島町に残る「岩亀横丁」は「岩亀楼」の別荘(遊女たちの保養所)があったため名を残したものである。横浜ドックが盛業の時代には工員たちで賑ったところでもあった。
ここの遊女屋には異人揚屋と日本人専用の店とがあり、娼妓にも外国人を客とするものと日本人を相手にするものとはっきり別れていた。日本人相手のところでは、上揚代一分、並揚代二朱で、時間は昼が明け六つから暮六つまで、夜は暮六つから明け六つまでとされていた。
異人揚屋の値段は非常に高く「上遊女揚代金壱両二分、中遊女揚代金三分、下遊女揚代金壱分二朱、男女芸者揚代昼夜金壱両二分」とあり上下で著しい差があった。また遊廓27軒からは年々冥加金として25両づつが徴収されていた。
岩亀楼の遊女喜遊は「露をだに厭ふ大和の女郎花ふる亜米利加に袖は濡らさじ」の辞世で知られている。有吉佐和子に小説「亀遊の死」、戯曲「ふるあめりかに袖はぬらさじ」の作があるが、異人に操を売るのを拒んで自殺したというのは当時の異人への反発気分による歪曲、攘夷派の政治的キャンペ-ンで、事実ではないであろう。ただ神奈川本覚寺に墓所があり過去帳に「俗名喜遊文久二年八月」とあり実写の写真も残っているところから、人物自身の実在は確かである。
特定外人に一カ月契約の「オンリ-・ワン」として女性の方から出向いて行く風習もできたが、その元祖は鈴木善二郎抱えの亀島、初菊の二人とされている。こういう洋妾を「らしゃめん」と言ったが、外人の方では「ヨコハマ・ワイフ」と言った。「らしゃめん」の言葉は羅紗綿から転じたもので、綿羊の毛でつくった西洋織物を身にまとう異人を相手とするところから出たという。一説には異人の妾となった婦女は、多くは羅紗綿でつくった婦人服を身につけていたところからこう呼ばれるようになったと言う。また異説には「羅紗女」の女・娘も「め」が「めん」になったとも言う。綿羊娘、綿羊女、洋娘、羅紗娘などとも書くが、いずれも「らしゃめん」と訓じている。岩亀楼では一カ月間の仕切り(約束)が50ドル、半月仕切りが25ドル、一夜行きが5ドルであった。中国人(なんきんさん)向けは格が下がってそれぞれ25ドルと金一分、13ドルと金一分、2ドルであった。
【豚屋火事】
石川一夢という講釈師が転業して現在の関内太田町で豚肉屋(豚屋鉄五郎)を開業していたが、そこから出火した慶応2年10月の「豚屋火事」は横浜中心部の3分の1を焼き、ここの遊廓も全焼した。遊廓全部が遊女の逃亡防止に掘と沼で囲まれていたため、遊女・遊客や関係者四百数十名が焼死した。この火事の結果、居留地と日本人町の境に防火帯として幅20間(36米)の火除け地が生まれた。これが日本大通りである。つまり日本大通りは「通り」の名はあっても西欧都市における都市機能のひとつとしてのシュトラ-セ、ブ-ルバ-ル、ストリ-トではなく、一種の住み分けのための区画線であった。港崎遊廓の周辺には次第に人家が立ち並びはじめ、風紀上問題も多くなったので、吉原町(今の羽衣町)に移転することになるが、その後いくたびかの移動を重ねることになる。
【チョンキナ踊り】
港崎遊廓で生れ当時の横浜の遊里で流行したものに「横浜拳チョンキナ」がある。野球拳のように歌につれて負けた方から一枚づつ着物を脱いでストリップになる遊びである。今は全く忘れられているので歌詞を記しておく。
「ちょっときな、ちょっとちょっと、ちょっときなきな、九つあいずにうらてのしおり戸」
「ちょんぬげ、ちょんぬげ、ちょんちょんぬげぬげ、ちょんちょんがなんのその、ちょっとぬいでよいやさ」
「ちょん立て、ちょん立て、ちょんちょん立て立て、ちょんちょんがなんのその、ちょっと立てよいやさ」
【横浜の歓楽街の歴史】
敗戦後は公園の大半が米軍施設になりチャペル、フライヤ-ジム、ロウ・ゲ-リック・スタジアムなどとなった。フライヤ-ジムで当時人気絶大の島倉千代子が公演したとき観客が倒れ多数の死傷者を出したこともある。昭和33年4月1日発効の「売春禁止法」で横浜における赤線・青線地帯は表面では姿を消した。赤線・青線とは売春が公認されていた頃の警察の取り締まり地図上で色分けされたことに由来する公認・非公認の売春ゾ-ンであった。
江戸時代の各宿場や漁場の飯盛女郎や夜鷹は売春の前史だが、横浜でも各宿場には江戸時代からの延長で遊女が置かれ、また根岸の白滝不動周辺の酒楼にはこの種の女性が常に客に侍った。
近代横浜の遊廓は開港直後の港崎遊廓に始まったが、前記慶応2年の豚屋火事で壊滅後太田町2丁目の仮宅(今の5、6丁目)に移った。ついで慶応3年に吉田新田の一部の梅ケ枝町、若竹町、松ケ枝町(今の長者5丁目から伊勢佐木町2丁目あたり)に移転し、江戸のそれにちなんで吉原町と称した。これが関外のひらけはじめである。
明治3年京浜間に鉄道が開通し海岸を埋めて高島町ができた。明治5年に吉原遊廓(明治4年11月火事で焼失)をここに移し高島遊廓(高島町1丁目から8丁目)と言った。ここでは岩亀楼と神風楼が壮大な建築で覇を競った。ところが高島町は東京への正面入り口で内外の貴顕の往復の道となり、昼間から遊女らが裸おどりをやったり聖上を二階から見下ろしたりするのはよくないということで、長者町あたり(八丁縄手)に移る計画が出た。もともとここは明治初期に河野与七なる者が吉田勘兵衛から安く土地を買って水天宮を建てたが地盤が海面より六尺も低く、大雨が降るとたちまち水没する土地だった。そのため明治12年地主たちが誘致運動をしたものである。その頃、真金町や永楽町あたりの土地2万坪を持て余していた備前候が、八丁縄手に遊廓ができる噂を聞きつけ、猛烈な誘致運動を始めた。行きがかり上真金町・永楽町の建設が終わるまで遊廓は一時長者町3~4丁目で仮営業したが、明治21年7月完成とともに永真遊廓が誕生した。これが昭和33年まで続く。永真遊廓は横浜最大の歓楽地として、明治26年には52軒784人、明治41年末には67軒1463人、大正年間80軒1200人と盛大になった(昭和4年には不況のせいか70軒525人と減少している)。売春禁止法施行時までにはその他、反町遊廓、親不幸通り、洪福寺付近の新天地遊廓などがあった。
遊廓以外にさらにいわゆる花街も市内各所にあった。記録に留められているものを列挙すれば次の通りである。港崎町(万延元年60人うち男芸者(7)、吉原町(明治4年118人うち男芸者17)、羽衣町(明治4年82人)、高島町(明治14年68人)、永真(2人)、反町?、岩間?神奈川(大正10年233人)。また見番のあったところは次の各所である。関内、関外、本牧、日本橋、蒔田、井土ケ谷、御所山、藤棚、磯子、神奈川、東神奈川、子安、鶴見、保土ケ谷、大久保、森(?)、寿、北方、弘明寺、戸部、最戸、平沼。
「三業地」とは芸者置屋、待合、料理仕出しの三種類の分業システムを指し、「見番(検番)「が芸妓の手配を行なった。「二業地」とは三業のうち待合を欠くもので、磯子花街は二業地であった。二業地は三業地に比べてワンランク下と見られていたがそれだけ費用の低廉であったし男性としては一種の「隠れミノ」の機能もあったであろう。戦前は公娼に対して黄金町を中心にした高等私娼区域が繁盛していたが、敗戦後の横浜では昭和28年の厚生省公衆衛生局防疫調査が残っており、市内の洋娼2500人、街娼800人、計3300人を数えた。
【永真歓楽街と大鷲神社】
永楽町と真金町にまたがる市内最大の遊廓で、両方の町名をとって「永真」歓楽街と呼んだ。港崎遊廓が火事のあと高島町に移されたが鉄道の完成により目ざわりとなり、この地に移転したもの。明治21年頃には妓楼77、娼妓1200余名を擁して内外人の歓楽街として賑わった開港とともに生れた港崎遊廓の繁栄を願って岩亀楼主佐藤佐吉は讃岐から金比羅大権現を勧請して廓の守護神とした。遊女の揚代金一人につき文久銭一個を徴収(当時四銭に相当)したので、当時の好況のためたちまち二間四方の朱塗りの本殿が建立された。その後、遊廓の移転のたびに移転したが、明治5年末高島町に移転したとき東京にならって大鷲神社を並祀し、これが「つかみとる」の縁起で「酉の市」となり、爾来「お酉さま」の方が有名になった。明治21年に永真遊廓が完成するや現在地に鎮座。毎年11月の酉の日に祭事(年により2回または3回)を行なったがこの日は遊女たちも解放されて艶麗な姿を現わし、また各商店では小僧たちにも遊ぶ時間を与えられ、一般婦女子もこの日だけは公然と遊廓内に入れるので好奇心から賑った。縁起ものの熊手、達磨が有名である。毎年お酉さまがくると横浜市民は暮を実感した。