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「川と海から」-050.

中村川・堀川沿岸周辺の戦争遺跡

 

 【宝生寺と空襲、大震災殉難韓国人慰霊碑】

 三代前の住職佐伯妙智師は移住朝鮮人に対しても日本人同様一視同仁の心惇く、大正12年の関東大震災で虐殺された横浜市内朝鮮人の慰霊碑建立に力を貸し、毎年9月1日日には歴代住職が法要を欠かさず今日に至っているし殉難韓国人慰霊碑」の建立のため境内の提供もした。碑面に刻まれた「直接又は間接の被害を受け‥‥」の日本人に遠慮した表現に建立者の鬱屈した心情とひそかな抗議を読み読み取ることができよう。(この建立は大韓民国居留民団の手になるので「殉難韓国人」となっているが、その表現が「韓国人」か「朝鮮人」かで全国的に朝連との間で問題になることが多かった(横浜では民団系、朝連系で寺が別である)。長野県松代の大本営跡の「殉難慰霊碑」は日本側の調停で民団、朝連双方が「殉難朝鮮人」の名称に同意した。大震災当時の呼称は「韓国人」ではなく「朝鮮人」だったからである。

 昭和17年4月18日ドゥ-リトル爆撃隊の日本初空襲のとき堀ノ内町では平屋二棟(三世帯)が焼失、寺域にも焼夷弾数発落下し、また昭和20年4月15日~16日の夜間空襲では山内に焼夷弾数十個が落下、飛び火によって長屋門が焼失した。この夜堀ノ内・睦・東蒔田の大半が罹災したが、罹災者救護のため昭和25年まで延200人もの人々がこの寺の内に収容された。(先代住職佐伯真光師は当時共進小学校六年生だったが「横浜の空襲と戦災・第一巻」にこの空襲時の記を寄せているのでご一読願いたい)。

【焼死体仮埋葬地蒔田公園・光勝寺の睦地蔵尊】

 戦災による死者で引取り手のない遺体は急遽適当な場所に集団的に仮埋葬された。一周忌の翌1946年(昭和21年)の5月29日に横浜市では仮埋葬された死者の法要を営むこととし、家族・親族などの遺体の見つからない人の参列を呼びかけたが、これを伝える「神奈川新聞」の記事は次の8カ所の仮埋葬場所を上げている。久保山円覚寺、久保山東光寺、石川町蓮光寺、三ツ沢共葬墓地、白楽吉祥寺、堀の内本願寺(?)、中村玉泉寺、睦町小公園(このほかに東野伝吉氏は睦町光勝寺をあげている)。神奈川方面の遺体は東神奈川の金蔵院境内などに仮埋葬されたが付近一帯が米軍に接収されたため、白楽の吉祥寺で法要だけが営まれ、仮埋葬の遺体は改葬の余裕なくブルド-ザ-でならされ、1948年(昭和23年)にやっと市営三ツ沢墓地に合祀されたという。

 睦町一帯は大空襲に先んじて同年4月15日にすでに被災しており、5月29日に最終的に壊滅した町である。当時ここの公園には水槽(池?)が二つあって、その一つのコンクリ-トの水を抜いて遺体を埋めたのである。たちまち一杯になったので隣に新しい穴を掘って広げたが、大きな土饅頭が二つできた。近くの光勝寺の方にも土饅頭が一つできた。

 「中には赤ん坊を抱いている母親がいましてね。親の胸と子供が接しているところは焼けずに残っているんです。母親の背中が骨まで焼けているというのに」「こんなに大きな池と防空壕にポンポン放り込んで埋めたよ。トタン板の上に乗せてね。トラックから投げ捨てるように埋めたんだな。いくつあるのか数えるわけにも行かなかったけれど、軍隊が『だいたい600体だ』と言っていた。ほんとはもっと多かったかもしれないな」「ここだけで一杯になっちゃったんで、たしか日清製菓のところに持ってったと思うな、100体ぐらいだろうよ」。犬なんかに掘られたことはなかったんですか?という記録収集者東野伝吉氏の質問に地元の畦柳氏はくやしそうに答える「いや、人間がね、埋めたあとの周りに囲いを作ったんだけれど、それでも中に入り込んで、なにしたと思う?指輪や金歯を盗んだ奴がいた」。

 睦地蔵尊は遺体が掘り出されて三ツ沢に合祀された昭和26年に町内人が計画し子供を抱いた石仏を祀った。この地域が4月15日と5月29日の二回被災していることに因み毎月5の日と9の日を縁日ときめて今日に至っている。「みんな忘れちゃっていますよね。子供は縁日に喜んで出かけるのですが、肝心のお地蔵さんのことはよく知らないんですよ」「それどころか賽銭箱の中にね、竹の先にガムをつけたのを入れて金を盗んだり、箱をひっくり返して盗るヤツもいて、困ったもんだ」。(東野「昭和二十年五月二十九日」、今井清一「大空襲5月29日」による)。

【お三の宮の割れた手水鉢】

お三の宮で知られる日枝神社の大きな手水鉢が猛火で焼かれて割れたまま置かれている。このことを示す説明版もあるが、戦争の災禍の記憶を消さない関係者の努力は多とすべきであろう。

【中村八幡宮の割れた慰霊碑、慰霊堂】

 横浜橋商店街を山谷の方に入り左手に中村八幡宮がある。入口の開港期の日本初期西洋式測量の基準点として使われた刻印のある座標石は貴重なものである。それとともに入口右手には高熱で前面が溶けてしまった地蔵(再建された地蔵と並んでいる)、割れたお百度石などがある。本殿右手のブッシュの中に大きな「関東大震災慰霊碑」があるが、これも炎であぶられて崩れたままで、最下部に「碑」の文字だけが残っている。左手の小さなお堂は「忠霊祠」の額が掲げられ、堂内には地元出身の戦死者・戦病死者300数人の軍服姿の写真がいつも掲示されており毎月1日に神社として慰霊祭が行われている。

【焼死体仮収容地玉泉寺と破壊された石柱】

 東橋たもとの玉泉寺は空襲直後の遺体仮収容場となった。今はすっかり整理されて昔の面影がないが、正面右側の「観世音」の石柱は業火にあぶられ破損したものを修復してある。

 【諏訪神社の狛犬と手水鉢】

車橋を渡って山元町方向に進み右に折れてJR石川町方面に進む右手奥の高いところに諏訪神社がある。石段を上がりきった左手の狛犬は片足が割れてなくなっている。また手水鉢も真ん中から二つに割れて修復のあとを残している。筆者が調査したときちょうどご帰宅の若奥様に伺ってみたが、戦災との関係についてはなにもご存じなかった。たぶんこのあたりでも大空襲の記憶は風化してしまっているのだろう。

 

 

宝生寺境内の大震災殉難朝鮮半島出身者の碑

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