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「川と海から」-010.関東大震災と朝鮮人

 

 

 大正12年9月1日の関東大震災は横浜旧市街を全滅させたが磯子区の被害は中心部や埋立地に比べれば少なかった。しかし混乱に乗じて朝鮮人暴動のデマが広がり多くの不幸な在日朝鮮人が「自警団」の犠牲になった。

 当時このあたりには故郷を離れて仕事を求めに来ていた朝鮮人が多数いたので被害も多かった。八幡橋にも自警団の検問所がおかれた。

 当時関東学院中学の三年生で根岸の坂下の叔父宅に寄宿していた歴史家ねづまさし氏はこの橋のところで自警団に朝鮮人と間違われ、「やっちゃえ、やっちゃえ」「黙っていると殺すぞ」「面倒くさい、やっちゃえ」と日本刀を胸元に突つけられた。居合わせた知人の証言で危うく一命が助かった体験をPR紙「有鄰(昭和53年5月号)」で語っている。「僕はこの時、日本人というものはいかに付和雷同するものか、ということを少年ながらつくづく感じた。上級生の横山政夫君はドモリのため自分の住んでいる町内で朝鮮人扱いにされて殺された。

 関東学院で化学を教えていた道鎮亘先生は、表札を見た近所の人から朝鮮人と思われて迫害を加えられようとした。浦和高等学校の秦慧玉教授も表札が原因で殺されようとした。

 植民地朝鮮でのそれまでの強圧的支配への報復を恐れた陸軍や内務省筋の恐怖感が原因とされているが、一般日本人の差別意識がこれを助長した(堀ノ内の宝生寺には死者に区別はないという住職の英断で「殉難韓国人の碑」があるが、これも多くの寺で拒否された末のことである)。横浜港都の建設、戦時中の軍事施設工事に多数の朝鮮半島出身者が劣悪な生活環境と日本人からの蔑視に耐えながら従事してきた。欧米先進文化の導入口に住む横浜人は「脱亜入欧」「舶来上等」の言葉のもとに欧米人には無節操に拝跪しながら自らの近代化のため踏み台にしたアジア諸国の民衆への人類としての視点を持ちえないでいる。同じ港町でも古くから大陸と交渉のあった新潟・博多・神戸・大阪の都市と比べて果たして横浜は「国際都市」と言えるのであろうか。

 

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