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「川と海から」-011.根岸・滝頭の疎開道路

 

 

 疎開とは戦場で兵員・兵器が密集していると砲撃などで被害が大きくなるため分散し配置し直すことだが、戦時中の内地では空襲による損害を少なくするための「火除け地」をつくる家屋疎開、子供たちを危険な都会から農村に集団的に移動させる学童疎開(単独で親戚知人を頼る縁故疎開)などの用語として使われた。

 家屋を撤去したあとの空地帯は消防自動車や貨物自動車さらに避難民の通路となった。これが「疎開道路」である。

 近代戦の戦略爆撃では一般市民も空襲の被害を免れることができない。昭和12年成立の「防空法」は太平洋戦争の勃発により昭和16年に大幅に改正され、内務大臣または地方長官(今の県知事)が必要と認めれば一定の区域で建物の改修、建築禁止、制限、改築、除去などを命じることができるようになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 戦局が悪化した昭和18年に防空法はさらに改正され、すべてに強制力が発動された。強制疎開地域の指定は昭和19年1月26日の東京、名古屋を皮切りに大阪、横浜、川崎とつづき、全国主要都市で終戦まで実施された。東京だけでも第6次指定までに20万7千戸の建物が疎開したと言われる。神奈川県では昭和19年2月の鶴見駅前と潮田町の計2万8千坪と川崎駅前の2万9千坪が最初で、4月には保土ケ谷、東神奈川駅前、新子安駅前などが加わり、その後も次々指定地域が増えた。

 太平洋戦争中の磯子区はこのあたりから海岸沿いの平地を除けば人家もまばらで、少し丘の方に足を伸ばせば田畑や林の広がるのどかなところだった。16号線の市電沿線の滝頭・根岸・磯子と奥まった岡村には京浜工業地帯・港湾地帯の労働力を維持する多くの小住宅が建て込んでいた。16号線の禅馬の横浜銀行の南側から久木町・中浜町の境界、広地町・滝頭3丁目の境界を通り市電保存館前に通じる「瀧頭疎開道路(延長800」、山下本牧磯子線の根岸プ-ルセンタ-前からほぼ直線的に根岸橋東詰まで伸びる「根岸疎開道路(延長900m)」、同じく根岸小入口から根岸八幡の前を通り左折して磯子橋までの「磯子橋通疎開道路(延長770m)」、磯子橋のところから岡村1丁目1の14、公団北磯子団地入口まで続く「疎開道路(どういうわけかここは名前がない。延長350m)」、それと坂下公園から直線で坂下橋を通って交通会館へ続く「坂下疎開道路(延長500m)」の5本があり、このうち3本が市営バスの路線になっている。

 建物疎開は防空法にもとづく「強権発動」で行われたから住民は文句を言うこともできずごくわずかの猶予期間で立ち退かねばならなかった。破壊工事には学徒動員の中学生・軍隊・地元警防団(昭和14年に町の消防組と防護団が統合されてできた警察直轄組織)などが出動し、鋸で柱を切り大勢でロ-プを引っ張って倒すという原始的な手作業で行われた。もうもうたる埃の下で家人が家財道具をリアカ-に積むそばから情け容赦なく壊して行ったのである。破壊家屋の古材・建具などは軍事基地、防空壕、労務者住宅、軍需工場などの建設のためトラックで運び出されたが、時ならぬ木っ端の焚きものが大量に拾えるので家庭の風呂や銭湯を楽しめることを唯一の余録とした。疎開道路はそれまでの地域の隣人愛まで破壊して拡がって行った。

 疎開指定の建物は県が買い上げたが、その補償金は3千円を越える場合には特殊決済として5か年間3分8厘の利率で銀行預金にさせられ、3千円以下であっても緊急に現金の必要がないと認められると国債や債券の購入や長期預金などが勧奨され、応じないと非国民扱いにされた。これら国債や債券や預金は戦後の激しいインフレのためほとんどゼロに等しいものになってしまった。

 今この周辺のところどころに「疎開道路」の標識があり横浜市では「愛称道路」に含めているが、あのころ文句も言えずに追い立てられた人々の身になれば「愛称」というのは酷であろう。

 磯子区で疎開道路が急ピッチで作られた昭和19年の8月には国民学校初等科(今の小学校)3年から6年までの児童の「学童疎開」も始められ、滝頭小学校は406名が中郡秦野村、磯子小学校は396名は中郡大根村、浜小学校は75名が中郡北秦野町、根岸小学校は303名が中郡南秦野町と空襲の可能性の少ない近郊農村地帯に学校ごと移り、両親と別れて淋しい空腹の生活を敗戦まで続けた。この時期の集団疎開の児童は横浜市では2万5353名、全国では50万人にのぼった。

 

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