磯子区郷土史研究ネットワーク
「川と海から」-012.不動坂・白滝不動
根岸村の山の上と下を結ぶ道路の中で馬車や牛車が上り下りできるのはこの坂だけだったので、土地の人はこの坂を「馬力坂」と呼んでいた(坂の上にバラキという茶屋があったので「バラキ坂」が転じたものとの説もある)。
海岸の半農半漁の村人が台地の上の畠に行くときは不動坂は外国人の往来を敬遠して昔からの急坂を上下したが肥料の運搬には難渋した。今でも残っている坂は次の通りである。七曲り坂(根岸線トンネル脇)、加曽坂・中村坂(日赤正面、豆口に通じる)、芝生坂・東坂(トヨペット正面・不動坂に通じる)、権現坂(八幡神社裏)、百六段(坂下公園裏)、馬場坂(米軍住宅へ)、南坂(途中で終わり)、奥ノ坂(宝積寺裏で終わり)、上ノ坂(?)。
不動坂を降り切ったところ94段の石段の上が白滝不動尊である。左奥に細い滝が崖を伝わって落ちている。かつて丘の上に樹木が繁茂していていた頃はかなりの水量だったが、今は水も枯れて昔の面影はない。
水量の多い頃は行者の修業の場としても有名であった。この丘から眺める根岸湾はまさに絶景で、当時の横浜貿易新報社(神奈川新聞の前身)の「名勝史跡四五佳選」の石碑が残されている。ここは江戸時代から明治・大正時代までここは近郷の崇敬を集めて賑った。
「向こう地」と呼んだ房総方面から舟でやって来る人々も多く、明治中期までは黄金屋、角海老、石崎、滝ノ屋、などの茶亭やはたご屋が軒を連ねていた。関東大震災のとき根岸村の民家は一軒も倒れなかったのにここのお堂だけ倒壊したが、村人たちは不動尊が身代わりになってくれたとしてますます崇敬を集めたという。白滝不動尊への信仰は近郷近在の庶民の間に広がり堀割川や新道建設につれて中心部からの参詣人も多くなって行った。現在の坂下橋はかつて「不動橋」と言ったが不動尊参詣で賑ったころの名残りである。
いまお堂の脇に小さいプレハブの建物があるが、これは「在日ベトナム統一仏教教会」で自分達の仏教の拠点がなくて難渋していたベトナム人のため不動尊の本寺宝積寺の住職が敷地の一部を無償で提供しているものである。