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「川と海から」-013.

根岸の西洋野菜と清水辰五郎

 

 

 開港後の居留地で母国から離れて暮らす外国人にとって日常必要なものは新鮮な野菜であった。文久3年(1863)頃これに目をつけた英国人カ-チスが山手の肥沃な土地で西洋野菜の栽培を試みたという。キャベツ、トマト、じゃがいも、レタス、苺、ラディッシュ(赤蕪)、キャロット、カリフラワ-、アスパラガスなどであった。

 慶応元年(1865)頃神奈川奉行所の指図で外国人の指導を受けて吉田新田の南分家の屋敷内で西洋野菜を試作した。当時は野菜の種子は貴重品で外国人はいつもトランクの中に入れて厳重に保管していたという。また当時の日本人の賞味するところとはならず、たとえばトマトなど「赤なす」「きちがいナスビ」といって食べれば髪の毛が赤くなると敬遠されていた。

 根岸の人清水辰五郎は文永久2年頃アメリカ貨物船のコックが根岸村に食糧を求め上陸したときに船の水槽で育てていたウオ-タ-・クレスを手に入れ、翌年にはさらにトマト、パセリ、苺、じゃがいもなどの種子を手に入れて栽培を始めたという。

 西洋野菜は需要に対して生産が少なかったので収益は大きかった。そのため明治10年ころからは根岸台地一帯に西洋野菜耕作者が多くなった。土地の人たちは西洋野菜のことをナンキン野菜と呼んでいた。下町の地蔵堂の西となり下町7-45のアパ-ト清和荘は清水辰五郎の旧宅あとである。

 

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