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「川と海から」-014.牛乳ことはじめ

 

 

 根岸村は牛乳にも縁の深い土地である。横浜で初めて牧畜を始めたのはオランダ人スネルで文久初年のころ、堀川の前田橋の居留地側に「牛乳搾取所」を設け内外人に販売した。

 その後スネルに雇われていた前田留吉が乳牛の飼育を担当、慶応2年8月に太田町8丁目(今の加賀町署付近)で日本牛6頭を飼って牛乳を販売したのが横浜での日本人創業第一号と言われる。

 当初は居留地内部で営まれていたが、臭気に悩まされたので明治5年(1872)に神奈川県は「牛豚牧畜ハ専務ノ品ニ候トモ其土地人煙ニ不拘開設候テハ即今暑気ニ向ヒ候際猶更臭気等モ甚敷、人生健康ヲ害シ伝染病モ右等ヨリ相生シ候間以来当港内勿論港外町々並村々人家建続き場所不相成、速ニ引払、懸隔ノ地ニオイテ養業可致事」との布告を出した。

 そこで牧場は根岸の丘に移り、山元町、旭台、仲尾台、不動坂などに置かれた。競馬場脇に設けられた英国人ニコラ・モルギンの「牛乳搾取所」は特に有名で、明治10年編纂の「神奈川県地誌」にも紹介されている。

 「字芝生台ニアリ、南北五十間、東西二百間ヲ囲ミ、野菜ノ類ヲ栽ヱテ之ヲ飼料トス。洋種牡牛五頭、同牝牛七十五頭、日々凡牛乳六斗二升ヲ搾リ得ヌ」とある。

 写真店創業で有名な下岡蓮杖も1872年頃、横浜公園前で牛乳屋「北辰社」を興し戸部の御所山で乳牛18頭を飼ったという。仮名垣魯文も1873年太田町の「牧畜場」の牛乳宣伝販売をしている。彼の新聞広告に「米国カリホルニア産の若牛を養育し現今牛乳を絞りて広く望むものに売り与えんことを欲せり」とある。また彼は当時としては珍しいコ-ヒ-牛乳なども推奨した。

 いずれにせよ当時は牛乳の値段は一合平均五銭、米が一キロも買えた時代だから大衆にとってはかなり高級な飲料であった。下岡蓮杖の牧場主任だった中澤源蔵は立野と横須賀に牧場を設けたが立野では乳牛30頭を擁し牛乳のほかバタ-も生産し、搾乳高は久良岐郡内で第二位であった。中澤は食肉商としても屠場経営者としてもパイオニアであった。彼の横須賀の牧場の主任が高梨庄三郎でいまの「高梨乳業」の創始者である。

 不動坂のレストラン「ドルフイン」の先を降りかけて左カ-ブするすぐ左の樹林(太田亥十二邸)も明治10年に開かれた牧場あとで明治から大正にかけて牛舎17~18棟、乳牛50頭を飼う山岸牧場があった。「ヘルム・ドック」で知られたヘルムブラザ-ズ商会も根岸で牧畜業を営んだと記録されているが、どこの場所か定かでない。

 

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