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「川と海から」-026.根岸監獄

 

 

 横浜開港と同時に開設された戸部牢屋敷(現在の県職員アパ-トの地)が横浜の発展につれ狭くなり、明治26年から32年にかけ堀割川沿いに新監獄を建設することになった。毎年10万円づつ5年間継続支出し敷地26,000坪(今の丸山二丁目全部)で建設が始まった。周囲を1メ-トルの土手と幅2メ-トルの掘で囲み、その内側に2メ-トル半の高い煉瓦の塀をめぐらし、34棟の建物が並んだ。大正5年11月9日の葉山日陰茶屋事件(神近市子女史の大杉栄刺傷事件)で女史が未決囚として収監され、ここから横浜裁判所に通った。独房には本が沢山あって毎日読書に専念し看手が感心したという話が残っている。

 関東大震災の頃は34棟の建物に囚人1078名、未決49名、拘留7名の合計1134名が収容されていたが、建物の倒壊や火災で、囚人52名と看守1名が死亡した。収容施設も食糧も無く、万策尽きた刑務所長は当日の夕刻約1000人の囚人を集めて点呼したあと24時間の「解き放し」を命じた。翌日の指定時刻までに帰ってきたものは約700名で応急施設再建のほか周囲の焼け跡の整理に精を出したという。9月末までの帰還者は730名になったが約300名はついに帰還せず逃亡者の扱いとなった。

 根岸湾には巡洋艦夕張が待機し、囚人430名は名古屋刑務所に移送された。当時監獄橋と呼ばれた根岸橋の川向こうには、深沢屋、浅野屋、川本屋の差入れ屋が軒を並べていた。

 震災で根岸監獄が全滅した結果、ここの移転問題が起こったが囚人や看手の糞尿を肥料として期待する日野周辺の農家の誘致運動もあって、現在の港南区笹下(久良岐郡日下村大字笹下字松本)の10万平方メ-トル(3万坪)に移転した。跡地は大蔵省で売り出したが買い手がつかず、青梅の綿糸問屋前川太郎兵衛が買い取って分譲を始めたが(前川分譲地23,000坪、坪25円から)やはり買い手が無く、昭和の初めにまず薬剤師会館ができ、その後弁天通りの貿易商大和商会がコンクリ-ト塀の屋敷を建てたものの戦後まで空き地が多かった。

 現在のように賑やかな町になるのは戦後も大分経ってからのことである。

 

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