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「川と海から」-057.横浜製鉄所から

横須賀海軍工廠へ

 

 

 寛永12年(1635)徳川幕府は鎖国政策の一環として五百石以上、二本以上の帆柱のある船、龍骨のある船の建造を禁止した。ペルリ・ショッにより鎖国が解かれ開国に踏み切ったとき、幕府上層部は海軍力の脆弱さを思い知らされた。西欧列強と対抗するため大型船が必要となっても日本にはそれだけの技術蓄積がなく、また時代はすでに帆船から蒸気船に、装甲も鉄板が普通になっていたのである。海外からの圧力に屈服さられぬため早急に近代式艦船とそのための造船所が必要になっていた。また日本人自身の手で操艦するための航海術習得も必要であり、そのため長崎に海軍伝習所を創設、勝麟太郎を伝習生監にあて観光丸を練習艦として訓育した。船舶の新造では間に合わないので、応急策として幕府はランダ、イギリス、アメリカ、フランスなどから軍艦8隻、船舶36隻計44隻を333万6千ドルで購入することとし、諸藩も29藩で計94隻を449万4千ルで購入した。

 安政4年、江戸築地に軍艦教授所が設けられるに及び、幕府は江戸の近くに軍艦の修理工場設置が必要になった。幕末の国際情勢は複雑でイギリスが徳川をフランスが応援して国内二分の危機状況にあった。フランス公使レオン・ロッシュの提案をもとに積極的に工場建設の建をしたのが小栗上野介忠順と栗本鋤雲(島崎藤村の「夜明け前」に豪快な奇人喜多村瑞軒として登場)である。第一段として、まず横浜に仏語校(もと生糸検査所のあたり)と横浜製鉄所を建設した。横浜製鉄所は今のJR石川町駅北口のもとの派大岡川の川べりが選ばれ、慶応元年(15)2月から工事が始まり、9月に完成した。五雲亭貞秀の「御開港横浜之全図・改訂版」には煙を吐くここの製鉄所が描かれている。慶応2年の記録では、人員はお雇いフランス人が16名、日本人71名の計87名であった。鉄具製造局、黄銅鋳造局、鍛治局、鑢治局、黄銅及銅造このころの横浜の近代化に貢献したのがヘボンに蛇蝎視された神父メルメ・カションである。横浜人はヘボンの令名にかくれてカションを無視する傾向があるが、初期横浜開発の先覚者として再評価しなくてはなるまい。そして薩長権力も無視できず近代日本が継承した江戸文化とその精神も。

 一方前年の元治元年(1864)11に月フランス艦隊司令官ジョ-ライスはロッシュ公使とともに日本側小栗上野介らを同道し、日本軍艦順動号に乗り大規模軍港ならびに船舶修理製造工場適地として長浦湾・横須賀湾を視察した結果、水深もありフランスのツ-ロン港によく似た横須賀港を「廠」建設の好適地と決定し、慶應元年(1865)9月27日に鍬入れ式を行なった。すでに稼働していた横浜製鉄所に続いてこれを横須賀製鉄所と命名し、船台やドックや工場、それにフランス技術者の宿舎や教会を次々に建設した。またここには佐賀藩主鍋島斉正が自藩で購入したまたま中止していた蒸気工作機械類一式も献納された。これが横須賀製鉄所の起こりで、のち横須賀造船所、さらに横須賀海軍工廠と成長し、日本海軍の基礎となったである。臨海公園の一角には小栗上野介とウエルニ-の胸像が建てられている。なお小栗上野介は熱烈な佐幕派で維新後郷里上州に引退していが薩長新政府に対し反逆の念ありとされ慶應3年上州烏川にて処刑された。碑に曰く「小栗公斬首阯水沼河原の石七個、上州権田村」と刻んだ丸川原石を中心に計七個の石が並べられている。

 当時のフランス側の技術者の総責任者が25歳の造船技師レオン・ウエルニ-で、当時の「助っと外国人」の例にたがわず年俸1万ドル(現在貨幣価値では1億円程度か?)の高給で雇われた(ちなみに横須賀製鉄所の建設費は年額60万ドル、4年継続で総額240万ドルの巨額であった)。ウエルニ-がほぼ10年間でやり遂げた主な仕事は、船台4基、ドック2基、各種工場・倉庫・事務所を備えた近代的造船所のほか、弘明丸、須賀丸、蒼竜丸、10馬力船、蒸気泥浚船、小蒸気船、クレ-ン船。灯台は観音崎、品川、城ケ島、野島崎など。その他付帯事業としてののレンガ造や水道工事がある。また近代的な建築や衛生的な水道が横須賀村の発展に寄与した功績は多大で、一造船所がひとつの村の姿を一

変させたのある。

 明治17年12月に横浜製鉄所の機械・建物を東京石川島に移し、翌年4月には敷地も政府に返上。政府は跡地を船員の共済団体たる東京掖済に貸して19年の歴史を閉じた。明治44年には横浜海員病院(のち横浜掖済会病院と改名)が建てられたが、昭和55年に中区山田町(長者町3

丁)に移転した。現在は高速道路に囲まれて製鉄所の昔の面影を伝えるものは全くない。

 

 

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