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「川と海から」-056.吉浜橋・西の橋

 

 今はJR線のため昔の面影がまったくないが、このあたりで中村川は桜木町方向に折れていて、その最初の橋が吉浜橋である。万延元年に居留地を切り離して「出島」化するとき中村川を延長して「堀川」をつくったが、その方向の最初の橋が西の橋である。吉田新田一つ目の埋め立てで新しい町ができ、その一つが吉浜町だが、湿地で葦が多かったので好字「吉」に変えて命名したものあろう。この角のところが横須賀海軍工廠の前身「横浜製鉄所」(次項)のあったところで、その後横須賀造船所の下請け工場となったが、明治17年に東京の石川島に移り跡地は海員掖済会に貸与された(今の長者町3丁目の掖済会病院は長くここにあった)。堀川は中村川と直結しているので一本の川のように見えるが、もともとはちがった性質の川である。堀川の山手側に旧横浜村(州乾の砂嘴にあった寒村‥‥市歌の「昔思えばとま屋の煙、ちらりほらりと立てりしところ」)の住民が強制的に立ち退きを命ぜられて移住し、それが発展して現在の元町商店街となった。横浜で最古の村であることから元町と称したのである。

 明治期の色つき横浜絵はがきに吉浜橋あたりから撮影した山手高台の写真があるが、フエリス女学院の大きな風車が際立ったランドマ-クになっていた。この学校で使う水は地下水を汲み上げてきたがその動力として風車が使われたもので山手の明るい空を背景にしたすばらしいランドマ-クであった。蛇足だが、「ランドマ-ク」とはその土地の構造物が自然や人情になじみ「その土地のシンボル」としておのずから土地の人の口の端に乗るべきものである。コペンハ-ゲンの人魚姫しかり、ニュ-ヨ-クの自由の女神しかり。この町の無機空間「みなと・みらい」の巨大構造物が建設当初から「ランドマ-ク・タワ-」の名を僣称して恥じないのは越権の極みで、市行政と三菱の非文化性・非歴史性のあらわれであろう。

 

 

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