top of page

「川と海から」-055.関内・関外、吉田橋、

遊歩道の番所

 

 現在のJRの駅名として親しまれている「関内」は開港期における攘夷派浪士の外国人襲撃を防止するための関所に由来し、この関門の内部を「関内」、外部を「関外」と言った。吉田橋関門が最も有名だが、居留地に通じるすべての橋に関門が置かれたのである。東海道から開港後の横浜村へは野毛坂を下り吉田新田堤(現在の吉田町名店街通り)に出たが、ここに野毛橋を架橋し、吉田新田から太田屋新田(現在の関内地区)には新大橋という長さ60間(一説に100間)の仮橋を架けた。これが後に吉田橋と言われ、居留地への正門にあたるものである。当時は現在地の少し北側、川幅の最も広い位置にあった。野毛浦から州乾への通路としては野毛浦から州乾の先端に文永3年(1863)に幅3間、長さ280間の仮橋が架けられたが、慶応3年(1867)に取り払われた。吉田橋ができてからはこのあたりが人馬交通の中心地となった。

 外国人への襲撃は幕府にとって外交的難問と厖大な保障をもたらすのでその警戒に並々ならぬ体制を敷いた。安政6年11月から横浜への主要道路筋のポイントに関所を設けたが、子安、台町、芝生、石崎、暗闇坂、吉田橋、宮ノ河岸渡船場(神奈川宿洲崎神社前あたり)がこれである。中でも吉田橋関門は最も警戒が厳重であった。同年4月にはここに高札場も設けられ布告書を掲示した。関門と同時に橋番所も置かれ「橋銭」を徴収した。二頭だて馬車天保銭五枚、一頭だて三枚、人力車・荷車は二枚であった(明治2年11月鉄橋になってからは馬車一銭、人力車・荷車は五厘となり、明治7年7月まで橋銭を徴収)。関門の開閉は朝六ツ(午前6時)から夕方の六ツ(午後6時)までだが、夕六ツ以降は袖門が夜の四ツ(午後10時)まで開けられ、それ以降は通行禁止であった。万延元年4月に中村川の川尻から元町増徳院脇の海岸まで川幅10間、延長580間の「堀川」が掘削され、居留地は切り離されて一種の出島となった。堀川に架かる谷戸橋、前田橋、西の橋にも関門が設けられた(すべての関門が廃止されたのは明治4年11月のことである)。吉田橋は明治2年11月に英国人R.ヘンリ-.ブラントンの設計監督によって日本最初の鉄橋に架け替えられ、以来「かねの橋」の名で親しまれた。更に明治44年11月にはコンクリ-ト橋に架け替えられたがJR線の開通によって幕を閉じた。

 開港後間もない安政4年から外国人の遊歩地域提供の合意が米国のハリスと日本側の岩瀬忠震らの間で行なわれていたが、日本側はなるべく狭い範囲に限定したかった。遊歩地域は最終的に「東北は六郷川、その他は横浜から十里以内」と定められ、江戸方向は多摩川、西南方向は酒匂川を境に八王子周辺までの広い地域が遊歩地となったのである。この前から外国人殺傷事件が頻発していたので幕府は火付盗賊改、市中取締役、定廻りなどの配置を強化して横浜町の警戒を厳重にする一方、横浜周辺や遊歩地域内にこの地に詳しい関東取締役を重点的に巡回させた。しかしこの広い範囲では関東取締役の警戒には限界があるため安政7年12月に遊歩地内外の重要地点に「見張番屋」を設置し、その管理運営を寄場組合の惣代らに負わせた。番小屋の仕事は遊歩地の外国人の警備、浪人の取締り、それに異変が生じた際の村々への緊急連絡、道路遮断、犯人逮捕などでその連絡網はかなり完備していた。(「寄場組合」とはそれまでの「多給制」の複雑な村支配を改善するため、近隣数カ村が領主のいかんにかかわらず連合したもので、文政10年・1827につくられた)。

 橋詰、船渡場、街道交差地点などに置かれたこの「見張番屋」の要員として集められたのが穢多、非人の被差別部落出身者であった。奉行所からの触書に対して村々から出させた「御請書」にも「夫々御取締として場所御見置小屋御取建、穢多・非人江番被仰付候ニ付」の表現が残されている。安政7年2月末に設置され慶応3年6月に廃止されるまでこの地域に設置された番小屋の数は、武蔵相模合計35か所で、馬入村のような拠点では10人詰、相模川筋の田村・厚木、多摩川筋の二子では7人詰、その他は5~6人で、それぞれ非人頭が統率した。すべての番小屋は保土ケ谷宿に定詰めの関東取締役に管理されていた。また外国奉行は村々に命じて村の自衛組織をつくらせ農兵の組織化を指示した。慶応2年(1866)の武州一揆の貧民たちが米穀商や豪農をうち壊したときに鎮圧に動員されたのはこれら農兵隊であった。横浜町に関門・掘割が完成し攘夷熱も冷めたことなどによって慶応3年に番小屋の制度は全廃されるが、実際にはこの制度の維持のために年間に二千三百両もかかるという経済的理由によるものであった。

 

 

bottom of page