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「川と海から」-054.亀の橋と地蔵坂

 

 明治になって根岸競馬場ができると天皇はじめ政府の高官たちが多数東京からこの地に訪れるようになった。文明開化の象徴たる汽車で横浜駅(今の桜木町駅)に着き、そこから馬車を仕立ててこの橋を渡って地蔵坂を上り、競馬場に急いだ。名称のおこりはさだかでないが、この橋のたもとに「丸正亀屋」という呉服屋があったことに由来すると言われている。これは後年の百貨店「松屋」の前身で、かつて「松屋創業の地・明治二年」と書かれた木標が立っていた。

 地蔵坂の名はその入口にある地蔵堂に由来する。坂の途中に蓮光寺があるが、もと横浜村太田屋新田にあったものが居留地の造成にともないここに移ってきたのである。ここには吉川英治の父吉川直廣の建立した墓があるが、英治はこの丘で幼少のころを過ごし、横浜ドックのカンカン虫(錆び落とし工)として働くなど苦労を重ねた。「ぼくの生まれた当時の両親は横浜の根岸に住んでいた。その頃はまだ横浜市ではなく、神奈川県久良岐郡中村根岸という田舎だった。家の前から競馬場の芝生が見えたということである。(中略)この辺の地主で亀田某という人の借家に住み、それが縁で亀田氏のすすめからぼくの両親はひとつの生活にありついたらしい、寺子屋、幼稚園まがいの小さな学校を自宅でやっていたのである。もとよりたくさんの子供を預かったわけではなく、相沢の貧民街の子供らが対象だった。ところが、近所に住む外人の子供たちも来るようになり、思いがけないそれは成功であったらしい(忘れ残りの記)」。英治の父は小田原藩の五石十人扶持の下級武士で維新後ご多分に洩れず生活に窮迫して新興横浜に希望をつないだのである。

 

 

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