磯子区郷土史研究ネットワーク
「川と海から」-138.横須賀海軍航空隊
日本海軍航空は、アメリカでライト兄弟が飛行してから6年後の明治42年に海軍大尉相原四郎と海軍機関大尉小浜方彦の二人が海軍大学選科生として航空研究を命じられたことから出発する。
明治45年6月、横須賀鎮守府司令長官の下に海軍航空研究委員会が設置され、この夏に相原大尉と金子大尉がドイツとフランスに派遣され、その後も次々と士官が海外に派遣され操縦術を体得した。大正元年10月、追浜の地に東西200メ-トル、南北600メ-トルを画して格納庫1棟を建設し、海岸に滑走路をつくった。この地を選んだのは当時は水上機だけであったが将来は陸上機の必要性も考慮しなければならず、ここが水陸両用可能な土地だったからである。この年の11月河野大尉がカ-チス水上機で、また金子大尉がモ-リス・ファルマン水上機でそれぞれ初めて操縦飛行し、高度30メ-トルの低空飛行で約15分間飛行して官民ともに目を見張ったという。同月12日、横浜沖での観艦式当日、金子大尉がファルマン機、河野大尉がカ-チス機で参加して喝采を博した。
この地に横須賀海軍航空隊が正式に発足したのは大正5年4月1日である。横鎮司令長官に隷属し、空中および海面の警戒防御を担当した。また練習科を設けて航空術の教育機関を兼ねた。バス停「日産自動車」から250メ-トル進んだつきあたりが旧海軍航空隊の正門である。飛行機の製作は海軍工廠で進められ、すでに大正2年の秋、カ-チス式とモ-リス式の折衷型が試作されて「日本式水上機」または「海軍8号機」と呼ばれた。大正6年の秋には工廠の馬越大尉の設計による「横廠式水上偵察機」が誕生したが、後のゼロ戦や一式中攻、二式大艇と並び称せられる記念的な作品であった。大正9年10月には若宮丸の特設板から艦上飛行を実施し、日本海軍最初の艦上からの発着に成功した。
昭和7年にはここに海軍航空廠が新設され飛行機製造部門が移された。航空廠は昭和15年に海軍航空技術廠となり、昭和16年4月に釜利谷の支廠がが独立して第二技術廠となった。第二技術廠は戦争中零戦や雷電の名機を量産していたが戦後は横浜市立大学や東急車輌の用地となった。