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「川と海から」-139.予科練の碑、

飛行機のない予科練たち

 

 横須賀市浦郷町の「貝山緑地公園」の山腹に海軍航空の発祥と予科練の誕生を記念する石碑が建てられている。もともとこの山は航空隊の敷地内にあり殉難者を祀った「追浜神社」があったところで、隊員たちの心のよりどころであり、また発着の際の目視の目印であった。気象観測所もここにあった。海軍航空発祥記念碑は長らく日産自動車工場内の旧格納庫にあったが一般の見学が困難なため、96年9月にここ貝山緑地に移転された。

 七つボタンの「予科練」とは「飛行予科練習生」の略称で、各地海軍航空隊で正規実戦訓練を受ける前の段階を「予科」として、昭和5年こここ横須賀航空隊に初めて設置され第一期生が入隊した。以後昭和13年に第10期生が土浦(霞が浦)航空隊内に移るまでの7年間はこの地で育ったのである。「予科練」には旧制中学4年1学期終了者の「甲種」、高等小学校卒業者の「乙種」、一般志願兵と徴募兵の中から選抜された「丙種」、さらに戦局が悪化し6ヵ月という短期養成が必要になった昭和18年に始まった「乙種(特)練習生」の区分があった。第一期生として全国数千名から選ばれた79名がここに入隊したが、当初は上記区分はなく昭和12年に従来の普通学教程の短縮を目的に採用基準を高くして「甲種」を新設したため、それまでの練習生は「乙種」となった。創設以来敗戦までの各種予科練の入隊者数は合計241,283名であるが、年次別には圧倒的に敗戦直前に集中し、昭和19年には112,266名、昭和20年が8月15日入隊者を含めて61,855名にふくれ上がった。これだけの飛行要員を採用しても実戦機は日々減少して行くだけであった。

 昭和20年には所属航空隊は12か所に増えたが、収容施設があるという理由で宝塚海軍航空隊(宝塚少女歌劇場)、奈良海軍航空隊(天理教宿舎)、高野山海軍航空隊(天台宗宿坊)など、飛行場となんら関係ない航空隊ができた。「甲種」の応募資格も中学2年終了と切り下げられた。太平洋戦争勃発の昭和16年までの入隊者10,857名の中で戦死者が8,427名(77.6%)と高率を占める(神風特別攻撃隊戦死者4,379人<うち海軍2,536人のうちの3分の2以上の1,800人が予科練出身者であった)。だが、彼らが飛行機に乗って出撃できたのは幸運と言うべきで、敗戦直前の頃の入隊者は飛行機どころか小銃もなく、本土決戦用の地下壕づくり(「ドカレン」と自嘲した)や特攻要員として消耗、もしくは本土決戦用に訓練された。こうして「七つボタン」に胸をふくらませた多くの少年が人間ロケット爆弾「桜花」はじめ、「飛行兵」の名を裏切る人間魚雷「回天」、人間爆雷艇「震洋」など、水中特攻や水上特攻の「兵器の部品」として死に追いやられた。

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