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「川と海から」-111.山川トンネル・

県営間坂トンネル

 

 江戸期から磯子区北部と南部の海岸地域は断崖が海に迫って往来の道がなく、両地域の関係は深くなかった。

 長いあいだ内陸部大岡川沿いの「金沢道」が南北の幹線道路で、今の笹下の東樹院周辺に久良岐郡役所・登記所・警察署が置かれ中心地となっていた。明治11年に磯子村の有力者山川吉左衛門氏が南北を結ぶ道路の建設を発意し自費で丘陵をくり抜いて長さ40mの素掘りトンネルをつくった。旧道から今の間坂交番へかけてのあたりで、これが山川トンネルである。民間の手による自費建設なので充分なものでなく、やがて危険になり明治17年に県営工事として山川トンネルの先に海岸線にほぼ並行する長さ200mの新トンネルができ、山川トンネルは自然消滅となった。県のトンネル工事では戸部監獄から多くの囚人が動員されたようである。

 またこのときに出た土を利用してプリンスホテルの登り口から大岡川分水路のあたりまでが埋め立てられた(明治21年完成)。このトンネルは区民に親しまれ、北部の人が当時屏風ケ浦にあった村役場に行くとき、南部の人が横浜中心部に行くとき馬車にゆられながら往復した。「ガタクリ馬車」と呼ばれる新しい交通機関は市街電車の開通まで庶民の足として重宝がられた。立場(乗り継ぎ所)が磯子のベ-カリ-のところと(旧)杉田427番地の旧落合自転車店のところにあり、お客が集まり次第ラッパを鳴らしながら往復した。当時のトンネルの中は真っ暗で子供たちは怖がったと伝えられている。

 平成:年に旧プリンスホテル閉鎖にともない周辺地域の再開発計画が表面化し反対運動も起こった。その過程で永年地下に埋没されていた「間坂トンネル」が空洞のまま存在することが明らかになった。南側方面はプリンス坂と斜交し何度かのノリ面の後退で破壊され出口も失われているが北側部分と出口(旧ひばり御殿あたりと推定)は地中に温存されている。開発者側がケ-ブルカメラで撮影した内部の全方位写真によれば天井の崩落や地下水の浸潤はあるもののかなりの部分が開削時の状態をとどめている。開港資料館松本洋幸氏が発見した明治22年2月23日の「朝野新聞」によれば「去る九年以来開鑿を企て(中略)百十間の隧道を穿ち(中略)明後二十五日までには落成」とある。工事開始明治19年、竣工22年2月、長さ200メ-トル弱だったことが判明した。同時に館蔵の「伏島近蔵財産目録」の関連記事には同じ氏が二千五百円寄付したことに併せ「両口者必ず煉瓦を巻置べき事」とも記載されているので、両方の出入り口を煉瓦で補強し内部は掘りぱなしだったことが明らかになった。

 横浜市内のトンネルはすべて関東大震災以降の復興計画によるものだが、磯子での明治中期土木遺産発見は横浜の土木史の記念碑であるとともに、磯子区南北の貫通、さらに横浜市域の杉田・金沢方面への拡張の貴重な歴史的遺産として重視すべきであろう。

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