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「川と海から」-099.

東洋バブコックと信濃丸の甲板

 

 明治40年英国のバブコック&ウイルコックスが山下町に日本総支社を置いてボイラ-の販売を始めたが修理工場が必要となり、ここにあった「禅馬ウイルコックス」を吸収して創業した。昭和27年には日立と提携し「バブコック日立」となった。現在の「ニトリ」の場所である。戦時中ここで働いた人の話では航空母艦の煙突まわりの製作も手がけたという。前記塵芥焼却場のボイラ-はここの製品だが、昭和5年に太平洋横断飛行にチャレンジしたタコマ号はこの南側の電気局埋立地の臨時飛行場からトライしたものだが(結局失敗して霞ケ浦、青森淋代海岸に移る)、アメリカから横浜に到着した機体は飛行場に隣接するここのバブコック社で組み立てを行った(磯子のタコマ号のことは「磯子区刊;浜・海・道、正続」に詳しい)。

 また初代工場長のブリトンは日露戦争のとき「敵艦見ユ」のバルチック艦隊日本海入りの発見電報で有名な哨戒船信濃丸の「お雇い機関長」であった。当時は日英同盟の関係で有能な英国人が日本軍のもとで働いたが、外交関係に配慮したためか日露戦争の正史にこれら英人の名を見ることがない。日露の講和後ブリトンはバブコック&ウイルコックスの要請によって支配人兼初代工場長となったが信濃丸への愛着もだしがたく、当時横須賀海軍工廠に入渠中の同船の甲板チ-ク材の払い下げを受け、「ウロコ」状にしたもので支配人宅の壁面を飾った。現在の横浜銀行磯子支店の駐車場のあたりにあったが、ブリトン邸はその後東洋バブコックの厚生施設となったが特異な外壁を持った洋館として地元では有名であった。ちなみに令嬢Lady Dorothy Brittonが葉山一色海岸でご健在だが、同家の暖炉周辺も信濃丸で使用した用材である。信濃丸のチェア-は山手十番館が約10脚所有し展観しているが、日露戦争ゆかりのものがこの近辺にあるのも奇遇である。

 バブコック社は明治期における日本の近代工業の先駆的存在であり地場産業の雄としてその業績の再評価が望まれる。同社製品の一つが赤羽砲兵工廠で旧軍武器製造に使われたのち旧呉海軍工廠に隣接する同社に眠っているが、誕生の地の当地に産業考古博物館ができれば第一号として収蔵すべきモニュメントである。

 (葛城峻「岡村歴史夜ばなし」参照)

 

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