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「川と海から」-103.真照寺

 

 正式名称は古義真言宗「禅馬山三郷(さんごう)院真照寺」という。江戸寛永期に51を数えた南区堀ノ内・宝生寺の末寺の一つだが、磯子平子氏の館跡で山塞に囲まれた平子氏の本拠地とされている。平子氏関係の古文書類はすべて宝生寺に集積されているが、両寺は平子氏を中心に密接な関係にある。

 宝生寺の位置する地名「堀ノ内」は中世以来武士の拠点とする館の周囲にめぐらせた「堀」の内部ということであり、磯子区北半分を占める平子氏支配の中心平地部から大岡川水系に通じるボトルネックとして戦略的に重要な地点であった。磯子真照寺には平子一族で最も著名な嫡流平子有長が本拠を構え、その弟石川二郎経長(つねなが)は丘陵地帯の石川郷を領していた(当時の「石川」は現在のJR石川町駅から連想されるような狭い地域ではなく、根岸・本牧・中村・蒔田の台地をつなげるかなり広範囲の地域であった)。

 宝生寺も文書の上では「石川談議所」として現れている。横浜開港期にペルリが表敬訪問した横浜村名主石川徳右衛門(元街商店街裏)も平子氏系分家石川氏の血を引く家柄かもしれない。三郷院真照寺の「三郷」とは磯子・岡村・滝頭三村のことである。当然禅馬川に共通の利害関係(灌漑用水配分、川さらえ、土手築造修理など)を持つ一種の村連合(江戸期の細分化された旗本支配の裏側に存在したはず)の中心として真照寺は実務的・象徴的役割を負ってきたはずある。また平子郷の中でもこの三村が真照寺維持の中核、ひいては鎌倉期子平子氏の勢力基盤であったろう。平子氏時代の地形は現在では想像すべくもないが、現磯子警察署と八幡橋の中間から市電保存館に抜ける「疎開道路」に面した磯一旅館のあたりに真照寺の山門があったと伝えられるから、現在の中浜町・久木町の全部と広地町・滝頭3丁目の南半分は寺域であったろう。

 鎌倉期においては今の寺の裏山海抜40~50メ-トルの「峰遺跡」のあとに建設された「ステ-ジ21」あたり、岡村に抜ける腰越坂の北側児童プ-ル・北磯子団地にあった腰越山(こしげやま)や岡村と広地の境にある「サンヴェ-ル磯子」建設で削り取られた伊勢山(横穴古墳があった)には城塞が築かれ、根岸・中村。蒔田・岡村・大岡・赤穂原あたりの烽火(のろし)台と連携していたにちがいない。それら烽火(のろし)台の置かれた丘陵部は石川二郎経長の支配地として兄の本領防衛に寄与したであろう。寺の前を流れる禅馬川もその頃は平子館を防衛する堀の機能を持っていたと思われる。真照寺は平子有長の再興と言われているが、創建時期、開山・開基の名はいずれも不明である。平子氏はこの地を三百数十年も平和裡に治めたのち後北条氏の武蔵南部進出に伴い、この地を蒔田吉良氏に譲って越後に退転した。この間の経緯を伝えるものは何も残されていないが、それだけにさまざまな想像かき立てるものがある。小田原北条氏の支配下になってからはこの寺が海岸に近いため房総里見氏に対する防衛上不利との考えからだろうが、真照寺は放置され後北条氏は丘陵をひとつ越えた西側泉谷戸の龍珠院に力を入れた。ここの裏山の城塞は、森、杉田、富岡と並んで東の海上の敵船を警戒する物見台として利用された。

 寛正4年(1463)といえば応仁の乱の始る四年前だが、平子氏に血の繋がる宝生寺の円鎮が衰微した真照寺のために根岸村寺領分の三分の一を寄進したことが新編武蔵風土記稿にある。円鎮は阿弥陀堂を建てここにも寺領を寄進している。宝生寺としても本家筋にあたる真照寺を見捨てておけなかったのだろう。徳川期になると代々の将軍から寺領として四石九斗余りの御朱印地を賜るようになり安定する。幕末から明治にかけ住職日野晃は寺内の堂で寺子屋を開き、これが磯子小学校の前身たる「真照学舎」となった。この寺で本尊の阿弥陀仏より著名な毘沙門天は平子有長の寄進と伝えられているが、これもさまざまな想像をかきたてる。毎正月のイベントで賑う「磯子七福神めぐり」があるが、真言系七寺院の中で七福神の一と対応しているのは真照寺だけである。他の寺ではたまたま配分された七福神をご本尊以上にPRしているのはいかがなものであろうか。宝生寺だけが例外的に本尊大日如来に集中しているのは見識である。

(葛城峻「全国平子氏シンポジウム記録」参照、磯子図書館)

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