磯子区郷土史研究ネットワーク
「川と海から」-059.大丸谷震災慰霊地蔵
JR石川町駅の裏手から山手に食い込んだ谷戸が大丸谷で、JR線側の広い坂が大丸坂、途中から左折し反対側を上る狭い坂が土方坂である。女学生の通学路としてその名がふさわしくないため使われなくなったが、開港期以降の港湾荷役労務者や埋立工事作業者の供給・管理にあたった鈴村要蔵の人足部屋があったことからその名が生まれた。肉体労働に対する差別感から土方の名は卑しめられてきたが初期横浜の都市化の下支えをして来たのが彼らである。中村・山谷・八幡の周辺にもこういう集落があったので、それらに通じている現在の東橋も大震災頃までは「土方橋」の名で通って来た。
関東大震災は地盤軟弱な横浜埋立地を壊滅させ多数の死者を出したが、大丸坂は避難の群衆が火の手に煽られて多数焼死したところで、土方坂への別れ道の下にそのときの犠牲者の慰霊のための地蔵堂がある。碑文には次のように記されている。
1923年(大正12年)9月1日午前11時58分関東全域にわたって大被害をもたらした関東大震災は、震源地を相模湾の北西部あたりの海底と推測され、北海道沖縄にいたる地域でも人体に感じ、全世界の地震計に記録とどめ、死者99,331名、負傷者103,733名、行方不明者43,476名の大地震であった。当時この付近一帯は各所より発生した大火災により一面火の海となり、避難民は高台(山手13番)の安全地帯を求めて大丸谷道路上を山に向って殺到した。その数約300名、しかし下方より吹き上げる火焔は物凄く、道路上は忽ち灼熱地獄と化し、前進を阻まれやむなく右手の崖を草の根につかまりつつわれ先にと登りはじめたが、後続の避難民は火焔にあぶられ熱さを耐えかね、つつじの灌木の中に身を伏せたりしたが後方より迫る火勢には抗しきれず、ついに27名は二度と帰らぬ犠牲者となった。震災五拾周年にあたり尊き人命を失った方々の霊に対し改めて冥福を祈るものであります。
昭和四拾八年九月一日石川町壱丁目町内会