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磯子区郷土史研究ネットワーク
「川と海から」-123.長昌寺
はじめは富岡山長昌庵という臨済宗建長寺派の禅寺で天正年間(1573~1592)小田原北条の家臣柳下豊後守の創建という。「武蔵風土記稿」によれば文録2年(1593)安房上総方面より流浪の盗賊が来襲し豊後守に手傷を負わせ本尊の阿弥陀如来を奪い去ったが、たちまち仏罰に会いもとに返したという。豊後守は手傷がもとで死亡するが、そのとき敵から奪い取ったという槍が現存している。慶長年間(1596~1615)に鎌倉明月院から仙渓和尚を招いて開山とし長昌庵を長昌寺と改めた。
*芋明神(いもがみさま、楊柳観音)‥‥種痘が知られない江戸期には泡瘡(天然痘)は非常に恐れられた流行病だった。一度かかると殆ど死亡するか命長らえても顔が芋のような醜いアバタになるので大騒ぎしたものだが予防の手段があく流行時には家の入口に「鎮西八郎様御宿」と書いた札を貼るていどであった。
冨岡の板橋(旧横浜海軍航空隊入口あたり)に二間三間の小祠があって社前の池にはす芋に似た「霊芋」があり一年中枯れることがなく、これが泡瘡に霊験あらたかとされ江戸からの参詣人が絶えなかった(参詣のための道標が今も保土ケ谷宿金沢横丁にあるほか、諸方の道標に芋神への方向が刻まれている。芋神様は今は長昌寺に移されている)。
*直木三十五墓‥‥直木は慶珊寺の裏に屋敷を構えたが墓は眺めのよい禅宗の寺にという願いでここに定められた。慶珊寺裏の文学碑とともに文芸に志す者の参詣が多い。直木賞受賞者の一人胡桃沢耕史も心酔者で直木を敬慕するあまりその隣りを墓所としたが、本来はここは墓地地域でないし、師の隣りのスペ-スを独占するのは受賞者筆頭を誇示するようで、羞恥を心得るべき文学者としてあまり褒めたことではあるまい。
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