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「川と海から」-067.ヘボン博士のこと

 

 現在の法務省合同庁舎の前に「ヘボン邸跡」の碑があるが、アメリカ人宣教師師にして医師、慶応3年(1867)日本最初の和英辞典「和英語林集成」(ヘボン式ロ-マ字による)編纂者としてのヘボンの名はあまりにも有名である。安政6年開港直後の日本に来たヘボンは同じ宣教師のブラウンやバラ夫妻とともに神奈川の成仏寺を宿舎とし大村益次郎らに英語を教えた。生麦事件で負傷しアメリカ領事館のあった本覚寺に運ばれたマ-シャル、クラ-クに応急手当てを施したのも成仏寺時代のヘボンであった。宗興寺にいたシモンズが移転するとヘボンはその跡を治療所とするが、文久2年12月29日に谷戸橋際のの39番に移転した。ここでは江戸歌舞伎の人気女形三代目沢村田之助の脱疽を手術し、 切断した足にアメリカから取り寄せた義足をつけて舞台に再起させた。治療はほとんど無料の慈善行為で、ヘボンに診てもらった患者は一万人を越すといわれている。

 ヘボンは多方面の活躍をし、茶の輸出のきっかけをつくったり乳業や製氷事業にも適切なアドバイスをした。クララ夫人はまた英語塾を開き、高橋是清、星亨などが門下生となった。西洋式裁縫も教え、その門下から婦人服仕立て師が輩出した。ただ当時の宣教師の例としてそれぞれ医術、教育。社会事業などによって日本に貢献したことは事実だったが背後の母国の外交・情報作戦の一翼を担っていたことは記憶さるべきだろう。ヘボン博士も母国への通信にはフランスの同業カションへの悪意に満ちた報告、フランスの幕政接近への警鐘など、領事館の三等書記官なみのレポ-トがあり、博愛仁慈の顔との二面性を伺わせて興味深い。(葛城峻「加春酔言」参照。「横浜屈辱都市論」所載)

 

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