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「川と海から」-110.磯子の「谷戸」

 

 柳田国男の「地名の研究」に「やと」に触れた個所がある。やや長いが引用してみよう。「扇ケ谷、世田ケ谷など、鎌倉ではヤツを谷と書くこと年久しく、しかも鎌倉は文化の一中心であったために諸国に真似をする者が出て、今は当然のように考えられているが、いわゆる谷七郷(やつしつごう)はむしろこの地方のみの特色で、はたして東部日本の全体にわたって、ヤツが必ず京都以西のタニと同じ地形を意味していたかどうかは疑問である。鎌倉付近の昔のヤツに草木の鬱蒼たりし場合を想像してみても、実は西国に生まれた者のタニという考えと同じでない。ヤツが谷中や谷村などのごとく、ヤの一字音に化しているいるのを見ると、本来は拗音であったかと思うが、北武蔵から上州辺にかけては、ヤトといって谷戸の二字を当てている。何ガヤトなどとガの語を中にはさむこと鎌倉と同様である結果、誤って垣内(かいと)の字を用いた者も少なくない。

 つまりは山中よりも里中に多く、付近に民家のある場合が普通であったのである。たくさんの同名称地形をくらべてみねばならぬが、おそらくは二つの高地の中間にあって、居住と耕作とに便であった所、すなわち人は一方の岡のふもとに住み、ま近く田にもなり要害にもなりうるような水湿の地をひかえた場所をヤツまたはヤトと名づけて珍重したものではないか」

 磯子旧道には「入りの谷戸」「山田谷戸」「山王谷戸」があり、隣の岡村には「小谷戸」「泉谷戸」「竹の谷戸」「奥の谷戸」の小名がある。

 これらはいずれも湧水源を持ち初期から水田耕作が行われ、他とくらべて人家も多かった。狭隘な低地部は水田、丘陵斜面は草刈り場、丘陵上の南面は畑地ときまっていた。斜面に沿って立てられた家には「棚井戸」「掘り抜き井戸」があって、水利に事欠かなかった。近年の乱開発によって丘陵上には鬱蒼とした林がなくなり保水力を失った大地はこれらの井戸を枯らせてしまったが、いまも残る旧家で日常の便に供しているところも多い。

 山田谷戸はすでに丘陵上平坦部分はノリ面地ギリギリまで戸建てや集合住宅が迫っているが、ここは古くからの景観を残している磯子区最後の谷戸と言うべく、その保存と総合活用が望まれる。ここが開発されると磯子から「ヤト」の語も消えるであろう。

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