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「川と海から」-001.堀割川由来

 

 

 

 南区の駿河橋(今は池下橋・久良岐橋)から八幡橋の先まで2キロメ-トル余りの水路が「根岸堀割川」で、明治3年に神奈川県知事井関盛艮(もりとめ)が自費工事請負い希望者を募集し、吉田勘兵衛九代目の子孫吉田家の当主が応募して明治7年に完成させた。今の県警パトカ-基地の裏山と対岸の自動車学校裏山の間の通称「弥八ケ谷」の高さ122尺(37メ-トル)の丘陵を崩し地下3メ-トルを掘り下げるという大工事である。八幡橋先の河口の波止場建設では土砂が波に流されて難航し、吉田家は居留地の外国人ウォルスホ-ルから23万5千円の借金をしたが、ウォルスホ-ルが事業に失敗して資金を引き上げたため吉田家は県から借り入れ、結果的には埋立地は県の所有になって吉田家としてはなんら得るところがなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この水路が掘削される前は堀ノ内側の丘陵と中村の稲荷山とは尾根続きで、滝頭・根岸・磯子の臨海低地部は吉田新田や新開地から遮断された別世界「文化果つる地」であった。滝頭・岡村・根岸の丘から湧き出した水は細い川となって水田を潤し、平地を蛇行する八幡川に注いでいた。海に注ぐ八幡橋あたりの川幅は6メ-トルほどで木の橋が架けられていた。滝頭八幡宮は砂丘の上にあったものだが川幅を30メ-トルに拡張したため境内が半減した。村境いの平地の中央に掘割りができたためその両側に二つの村それぞれの「飛び地」ができた。滝頭八幡宮が根岸側に、根岸監獄が滝頭側にあるのはこのためである。根岸橋は当時ここが根岸村だったのでその名になったが、今ならば「滝頭・根岸橋」であろう。

 掘割川建設の目的は三つあった。まず、開港以来の人口増加によって吉田新田埋立のあとまで残っていた湿地(一つ目の沼)を埋めてる土砂の確保、第二に中心部と根岸の海を安全かつ効率的な内陸水運で結ぶこと、第三にこれは結果論と言うべきだが未開地だった滝頭・根岸・磯子・岡村方面の開発に寄与すること、がそれである。工事の完成によって一つ目の沼には新たに八つの町が誕生した。蓬莱町、万代町、不老町、翁町、扇町、吉浜町、寿町、松影町の「埋め地八ケ町」である。滝頭の波止場は波が砂を打ち寄せるので沖の方に延ばしたが、この運河によって中心部と横浜南部との交通が極めて便利になり沿岸には多くの工場や公共施設ができた。川の根岸側に新道がつくられ(次いで反対側にも)関内や港方面への往来が楽になり「横浜みち」「みなとみち」「中村通り」などと呼ばれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

根岸村の元名主成田兵右衛門は川筋に桜を植えたが最盛期には見事に開花して花見客で賑った。兵右衛門はまた掘割川への架橋を申請して工事をしたが、その費用は橋銭(通行料)でまかなうというものだった。明治9年にできたのは中村橋、天神橋(当時は五三前橋)、坂下橋(当時は不動橋)、八幡橋の四橋で、通行料は人間は3厘(内国人だけ)、諸車5厘、牛馬5厘であった。根岸監獄ができると正門前に「根岸橋」ができたがこれは「監獄橋」と呼ばれた。当時の電車(横浜市街鉄道)の停留所名も「監獄前」である。関東大震災のときには三吉橋(当時は土方橋)から八幡橋まで自警団のリンチで103の朝鮮人の死体が吊されるという悲しい事件があったが、このあたりの人々にも今は記憶がない。

 別項のようにこの川の両側は工場が、少し奥の方には住宅が立ちはじめ、磯子区北部は徐々に都市としての姿を整えはじめた。堀割川はこうして磯子区北部の「母なる川」となった。

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