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「川と海から」-031.野犬抑留場跡

 

 磯子区北部は横浜の都市化に伴い、中心部が排除した「負」の部分をいろいろ背負いこんだ。今では反対運動が起こるところだが、当時は問題にならずに実現した。

 現在の「脳血管医療センタ-」の前身伝染病専門の「万治病院」もその一つだが、その奥の谷戸は戦前から戦時中まで人家がなく「野犬抑留場」があり、網を張った粗末な柵の中には捕獲された数十匹の犬がひしめいていた。

 明治29年にわが国はじめて「獣疫予防法」が誕生し狂犬病も予防取締りの対象にはなったものの、野犬捕獲を行うというだけのものであった。当時は古来からの宗教的偏見や職業差別が甚だしく神奈川県(所管は警察署)は従事者を求めるのに非常に苦労した。この仕事の元祖とも言うべき人物は中村町に住む西川清吉氏で、侠気と度胸で沖仲仕の口入れ請負いを業としていたが、思案の末腹を決めて出願し、県も喜んで指定捕獲人の第一号とした。

 関東大震災のあと西川氏が老衰のため稲本徳次郎氏が継ぎ、その後中村覚之助氏に業務と施設の一切を譲り渡した。中村町の施設は震災後の復興都市計画で存置不可能となったので覚之助氏は移転地を磯子区滝頭字一丁谷に求め、ここで従業員を集め捕獲犬収容所を設け、捕獲とともに原皮と骨粉肥料の製造販売をはじめた。当時捕獲人の賃金は県・市から支出されず親方が製品の売り上げの中から手当をまかなったのである。昭和25年8月現行の狂犬予防法が公布された。行政も捕獲人を準職員として採用するようになり、捕獲の仕事が公の仕事として認知されるようになった。

 昭和44年1月,横浜市は本牧埋立地に近代的な総合抑留犬収容所を建設し所長以下数名の獣医の技術吏員が駐在するようになって、西川清吉氏以来の「指定個人捕獲業者」はいなくなった(この項、中島覚「神奈川県狂犬病予防概史」・中央図書館蔵、による)。予防注射の強制、行政と捕獲従事者たちの努力により現在は狂犬病の発症が極めて少なくなったが、それだけに一般市民の目からは狂犬病予防の仕事が見えにくく、また行政が収容施設の公開をしていないためその存在すら知らない市民が多く、野犬捕獲従事者への偏見はなかなか解決できないでいる。

 環境事業局の作業者に対するかつての市民の目は処理施設の近代化や公開によって著しく改善されたが、野犬捕獲の仕事は食肉処理の仕事とともにいまだに一般市民の偏見と払拭し切れておらず遺憾である。行政・市民・従事者の三者三様の自覚と改善努力が必要であろう。

 

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