top of page

「川と海から」-032.万治病院

(脳血管医療センタ-・環境科学研究所・

衛生研究所)

 

 このあたりを字「一丁谷」(いっちょたに)と言った。昭和40年頃の宅造で景観が一変したが人家が少なく行きどまりで、浦舟町の伝染病病院の移転先として申し分なかった。

 横浜は開港場のため海外からの伝染病が侵入しやすく、明治3年には天然痘、梅毒、明治10年には関内にコレラが発生し、明治12年に浦舟町に横浜避病院が設置されるに至った。明治32年5月から10月まで長浜検疫所勤務していた野口英世は偶然にも6月に中国人船員2名の日本最初のペスト患者を発見し名を上げたが、国際港都横浜ならではのことであった。

 明治35年以降数次にわたりペスト予防のためねずみ1匹を5銭で買い上げる政策が大都会でとられた。漱石の「猫」にもこれに関連した記事があるが明治38~39年の駆除運動のことと思われる。明治40年の第3回大流行のときの横浜のねずみ買上げは数は48万4760匹に達したと記録されている。横浜避病院は明治30年に横浜市伝染病院に、明治33年に横浜市万治病院と改名する。

 滝頭への移転は大震災の前年大正11年のことである。その後は以前のような悪質な伝染病は少なくなったが、昭和18年から敗戦にかけて腸チフスが、特に戦後は発疹チフスが流行し、昭和21・25年には発疹チフス発症のピ-クで一度に600人が入院し満員になるほどであった。

 日本で初めて抗生物質が投与されたのは昭和24年この病院においてである。その後は衛生観念の普及、社会的防疫施策の確立などによって伝染病専門の隔離施設の必要性が少なく、「脳血管医療センタ-」として大改造され新発足した。

 

bottom of page