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「川と海から」-020.

砂利取り場と「砂利勝さん」

 

 

滝頭八幡神社の東側の磯子橋・坂下橋あたりは明治のころの「砂利取り場」あとで、この砂利は掘割川をダルマ船で中心地に運ばれ港湾や都市の建設に重用された。横浜港の外国船が帰りの荷が少ないときには船底のバランス材としてこの砂利が使われたという。「砂利勝」といわれた安室勝五郎と「村山組」の村山捨松が有名で盛業していたが、いつしか砂利が枯渇して廃業するに至った。「砂利勝」の墓は岡村龍珠院にある。

 なおこの砂利は横浜南部の地下を覆う「保土ケ谷礫層」が地表近くに露出したもので、ここ以外にも市内の各所に「砂利取り場」があった。開港期の横浜村の記事にも村中あちこちに砂利採取の大きな穴のあることが記述されている(吉田新田干拓のころの材料となったのであろうか)。

 岡村に古い字名で「石投谷戸」というところがあるが、岡村丘陵の上の畑に露頭した礫層を後北条時代の房総里見氏との「湾岸戦争」のときの石つぶて合戦のあとと誤解してつけられた地名である。堀の内の旧字「石畑」、永田の「土砂ケいと」、その他横浜南部の小名に「石」のつく地名が多いが、この保土ケ谷礫層の仲間であろう。

 

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