磯子区郷土史研究ネットワーク
「川と海から」-079.フランス山とトワンテ山、
英仏軍駐留地跡・その確執
埋立地の外国人居留地は開港からの急成長で手狭になり幕府は山手に新たな居留地拡張を認めざる得なくなった。実際低湿地の平地部より眺めはよく木々の緑もすばらしかった。北方村の農地だった丘陵も次ぎ次ぎに平らになって見慣れぬ住宅が建設された。開港3年目の文久元年(1861)に127人だった(順は英米蘭仏)がその二年後には209人、さらに生糸や茶の輸出景気にあおられて千人を越えるのに時間はかからなかった。一方市中の治安は悪化し外国人を巻き込む殺傷事件の頻発した。幕府はこの取締まりに苦慮したがその力がなく、英仏の軍隊駐留を認めざるを得なかった。文久3年(1863)6~7月に仏軍が、12月に英軍が進駐する。場所はそれぞれ領事館として予定されていたところを中心とする谷戸坂上下で、仏軍は186番の3040坪、英軍が114、115、189番の5630坪で兵力は英軍1,800名、仏軍300名に及んだ。
慶応元年に入ると緊迫した事態も一応おさまり両国軍も次第に引き上げはじめたが、老中水野や新政府の度重なる撤兵要求や抗議にもかかわらず明治8年(1875)3月1日にいたるまでの12年間占拠するのである。軍服の色から仏軍は青隊、英軍は赤隊と呼ばれたが、横浜を代表する歌として知られた「ノ-エ節」はこの山での英仏両軍の軍事演習を歌い込んだものである。「野毛の山からノ-エ(RF)、野毛のサイサイ、山から異人館見れば、お鉄砲かついでノ-エ(RF)、お鉄砲サイサイ、かついで小隊進め。オッピキヒャラリコ、ノ-エ(RF)、オッピキサイサイ、ヒャラリコ小隊進め」。「オッピキヒャラリコ」は洋式調練の鼓笛隊の奏でる音の擬音化で「ノ-エ」は「イエス・ノ-」の転訛とも言われるが定かではない。いずれにしても横浜人の英仏占領軍に対する視線がインド・中国・朝鮮の民衆のそれと際立って異なっていたことに注目したい。
居留民保護を名目にして軍隊を駐留させるのは古今東西の常套手段だが、ここ横浜では英軍と仏軍がそれぞれの国家的利益をバックに背を向け合っていた。これは神の使徒として世俗に関係ないはずの宣教師・医師についても同じであった。
一例を上げれば、英和辞書編纂、名女形沢村田之助の切開手術で知られ「私の歩む一歩ごとに叡智と愛にみちた神のみ手をさぐることができます」と書いたヘボン博士は、「この居留地ではフランスの耶蘇会の有力な神父たちがおります。その一人(メルメ・カションのこと)はなかなかずるく機敏で、フランス公使の私設秘書を勤めその進言は非常に有力とのうわさです。カトリックは最近30人ばかりの青年にフランス語や科学を教える学校を開きました(生糸検査所近くにあった仏語学校のこと)。これらの青年たちはカトリック教会が幕府に要請して江戸から連れて来たのです。これらは疑いもなく私どもの勢力や学校をねたんで始めたことであり、またこの地域で英米の勢力と対抗しようとするフランスの国民的嫉妬と決意からです」と出先の三等書記官のような報告を書いている。
日本基督公教会を設立し聖書翻訳委員長をつとめ「おお主よ、どうか道を開き、日本人がわれらを受け入れ福音伝導の道を備え給わんことを」と祈ったブラウン博士はこうだ。「フランス公使館の通訳で内密の顧問メルメ神父が、幕府に英学所を取りやめ仏語学所で必要な英学をすべて伝授することを申し出るため江戸に行った由です。またフランス語を宮中の言語とすることを希望しているそうです。フランス人はこの地で日本人にフランスが地球上で最大な国だと思いこませ、また日本人を説得しようとして、日本人の進路を邪魔している者がいると思いこませ色々な手配をしています。フランス政府ほど横浜で偉そうに見せかけている政府はほかにありません」。ヘボン、ブラウン両師ともアメリカの教会からの派遣だが、フランスに対しては英米連合の一翼として幕府に密着したフランスを警戒し、特に公使のベルク-ル、その配下で栗本鋤雲と親交のある神父メルメ・カションへの露骨な敵意を隠さなかった。カトリック対プロテスタントという対立に輪をかけて国益というパワ-ポリティクスのギニョ-ルとしての一面を露呈している。
天津や北京でフランス軍と協同作戦をした英仏両軍だが、大した戦いもしない僅かなフランス軍隊が横浜で一足先に好適地を占拠しているのを見た英軍は当然反発していた。幕末の幕府はフランス側に、対する薩摩・長州はイギリス側に親しかったように、隣りあわせに駐屯することになったフランス軍とイギリス軍との間には対立緊張があった。たまたま幕府はイギリスを出し抜いて居留地の防衛をフランスに一任させるようにというフランスの提案を拒めず認めてしまい、イギリスはフランスに一歩先を越されてしまった。ロシアの強国化に対して英仏が一時的に接近することもあったが両国の間は決して仲良くならなかった。インドや中国の紛争処理で日本派兵がおくれた分を取り戻すべく、フランス部隊の250人に対して英軍はそれを上回る陣容を送り込んだ。フランス側は夜襲を警戒して柵をめぐらせ哨戒所を置く。イギリスは神奈川奉行に30日以内に兵舎をつくれと要求し、両軍はにらみ合った。フランス軍はこの丘を先取特権でフランス山と呼んだがイギリスは面白くない。駐屯部隊が第20連隊だったことから「トワンテ山」(日本人にそう聞こえた)と名づけた。幕府は両方の顔も立てて「陣山」と呼んだ。日本人は今でも「外国人」とひとまとめに呼んで不思議さを感じていないか。ここには一色の外国人がいたのではなく、それぞれの国家の国益を体した人のグループがいたのである。それらの間には有効と緊張の関係が網の目のように錯綜していたのである。
太平洋戦争に突入した日本は昭和17年に永代借地だった領事館敷地をフランスの所有地に切り替え、それと同時に敵対国の財産として没収する(戦争に負けるなど思いもしなかったのである)。そのために敗戦後は市内にフランス領土が生まれてしまった。フランスは当然所有権を主張し難航の上横浜市があらためて買収したのは昭和46年6月23日で4億円を要した。フランス領事館は東京に移転したため敗戦直後の混乱期には浮浪者や夜の女の住みかになった。山の上の英国領事館跡地も建物ぐるみ2億7千万円で買収し、両方をつなげてこの公園をつくったのである。
(葛城峻「山手から日本を眺める・歴史散歩資料」参照、磯子図書館)