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「川と海から」-080.バルタ-ル・パビリオン

(バリ市場)のアングル

 

 

 かつてここにはフランス領事館があり、また幕末にフランス軍が駐留した場所である・昭和56年11月フランスにちなんでパリ中央市場の地下に使われていた構造物が移設された。鉄の柱にア-チ型の梁を対角線に組み合わせたもので、色は当時と同じ青緑色で塗られている。

 設計者のバルタ-ルは19世紀中頃にフランスで活躍した著名な建築家で、代表作であるパリ中央市場やサン・オ-ギュスタン聖堂では当時の最新建築資材たる鉄骨とガラスをふんだんに使った。これらが世界の人の目に登場したのは1851年のロンドン万国博だが、鉄骨とガラスを組み合わせた衝撃的な水晶宮は新しい産業化時代を告げるものだった。ク-デタ-で政権を奪い繁栄の頂点にあったナポレオン三世治下で名実ともにヨ-ロッパの中心地になったパリは新しい時代を迎えつつあった。寵臣オスマン知事のナポレオン専制政治をバックにした大規模なパリ改造。その偉大なモニュメントが「必要なのは鉄とガラスの傘だけだ」というナポレオン三世の言葉から生まれたパリ中央市場である。

 「皇帝は大ナポレオンのように優れた軍人の経歴は持たない。戦争の天才だとは自分が信じない。産業による国の発展、その上に国内の貧乏を克服して平和な生活をもたらしたい。こう希望したのは殊勝だったが、やはり皇帝としての力のあることを見せたいのである。帝位を飾りクウデタ-の記憶を蔽い隠して了う花輪を人に見せたかったのである。それがたまたま、今日まで残る「花のパリ」の都市計画となった(中略)。セ-ヌ県の知事オ-スマンが計画を樹て、都市をかこんだ城壁を取除き、労働社街を場末に築き、幅の広い並木道を市中に縦横に通して、面目を一新させることにした、これは強制的な外科手術で‥‥(中略)セ-ヌ河は美しくなり、橋が幾筋もの白い虹のように渡され、中央市場の大建築が出来、大理石の彫像と黄金を塗り壁と円天井を絵画で飾って世界無比豪華なオペラ座が起工されることになった」(大佛次郎「パリ燃ゆ1」)。

 公園の入口には、かつてここにあった領事館のR.F(フランス共和国の略称)をかたどったメダイヨンも飾られている。いま春の日ざしの中でこの鉄骨の下を行くと、物見高いパリっ子に取り巻かれ、威儀をただしたナポレオン三世と得意顔で案内するオスマンの姿が浮かんで来るではないか。そのわずか後に普仏戦争で10万の将兵とともに「セダンの虜囚」になる運命も知らずに。

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