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「川と海から」-118.日本飛行機株式会社・

石川島航空発動機

 

 日本飛行機(ニッピ)は陸軍軍用機を生産していた立川飛行機株式会社の経営母体である渋沢同族会社が昭和9年に資本金200万円で杉田町と昭和町にかけ設立したものである。横須賀、横浜両海軍航空隊に近いところから主として水上練習機(赤い塗料を塗っていたので通称アカトンボ)をつくっていた。敗戦まで93式中間練習機を中心に総計2700機を生産したと言われる。敗戦直前には迎撃ロケット戦闘機「秋水」に生産を集中したが物資不足のため10機生産しただけであった。ちなみにこのロケット用燃料は大船の海軍第一燃料廠(現在のJR本郷台駅前周辺)で生産されたが非常に危険な作業であった(この運搬道路が現在の大船~武相隧道~八景線である)。水上偵察機「瑞雲」はここの生産機中の名機であった。敗戦直前には特攻兵器「桜花」も生産された。

 戦後社名変更があったがPD(特需)工場として米軍飛行機のオ-バ-ホ-ルやリペアを請け負い、また禁止されていた飛行機生産が認められるや戦後初の国産旅客機「YS-10」のモックアップを成功させ国産機製造の端緒をつくったのもここである。

 

【瑞雲】双フロ-ト型水上偵察機「瑞雲」は名機の誉れが高い。愛知時計に試作が命じられ制式採用になったのち、愛知で194機、日飛では59機が生産された。20ミリ機関砲2門を備え250キロ爆弾で急降下爆撃も可能な攻撃力を持った高性能万能機で、フロ-ト支柱にエア・ブレ-キを装着していた。本来は偵察機だが艦載用「水上爆撃機」と呼称されたが、登場が戦争末期のため搭載すべき軍艦がなくて水上基地から出撃した。沖縄戦でも奄美大島を中継して艦船・飛行場への夜間攻撃をねばり強く続け、海軍最後の名機の意地を見せたという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【秋水】「秋水」の名は日本刀を意味する言葉で(秋水一閂)、B29への最終的切り札として製作されたが試験飛行の失敗で実戦ではついに使われなかった。もともとこれは当時の同盟国ドイツがメッサ-シュミットMe163として開発したロケットエンジン機の設計図を海軍の伊号29潜水艦が3カ月かかってドイツかららシンガポ-ルまで運び、さらに図面だけを空路東京に届けたものである。(19年7月)機体は主翼と垂直尾翼だけで車輪は離陸後脱着、燃料は濃度80%の過酸化水素水の甲液と水化ヒドラジッド・メタノ-ルの乙液の化学反応で高温高圧ガスを噴出させる極めて危険なもの。機体・燃料とも日本で初めてだけに苦心惨憺の末敗戦直前の7月7日に第一回目の試験飛行にこぎつけた。試験飛行が追浜で行われのは離陸不可能な場合海中に飛び込むのが最も安全と考えられたからである。試験機は離陸したものの高度350メ-トルでエンジンが停止し、飛行場に引き返したが失速墜落しパイロットは死亡した。二号機の準備中に敗戦となったが、わずか1年間にこれだけの成果を上げたことは特筆さるべきであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【桜花】「桜花」は米軍から「BAKA(馬鹿)」と軽蔑されるほど無理な特攻用火薬ロケットで、一式陸攻に抱かれて敵艦隊に接近後に分離され、高速で体当たりする「有人爆弾」である。もともと防御力が弱く敵弾にあたるとすぐ火を噴くため「一式ライタ-」と悪評のあった母機が戦闘機の護衛もなしに機動部隊に接近するのだから、1.5トンの爆薬を抱えながら桜花は分離以前にほとんどむなしく撃墜されてしまった。昭和19~20年に合計850機が生産されたという。

昭和20年1月、戦局の悪化にともない日本飛行機は工場疎開や分工場設などの対策を取った。日飛は横浜市との間で市立滝頭国民学校の岡村分校として予定されていた土地(現在の岡村中学敷地周辺)の賃貸借契約を結び、木造の工場をつくって部品製造を始めた。戦後ここでは残された軍需資材を転用してスチ-ル家具をつくり「岡村製作所」となり今は追浜工業団地に移転している。戦時中の契約が戦後も生きていて、新制中学発足時に横浜市と日本飛行機との間で紛争が生じ、長いあいだ岡村中学の生徒は狭い校庭でがまんした。

 石川島航空発動機は昭和11年に石川島造船所が航空機のエンジン専門の工場として創設したもので、最初は石川島造船所航空機部工場と言ったが、のち分離独立して石川島航空工業株式会社となった。当時は日本の航空機エンジンを生産する四つの大企業の一つであった。素材不足や熟練工不足などで精密作業に困難を来し、一時は生産されたエンジンの50パ-セントが不合格になったと言われている。当時は運送手段も劣悪で、完全包装された新品エンジンが馬力(バリキ=馬が曳く木製四輪車で大八車を大きくしたようなもの)に載せられてのんびり国道を行く光景が日常的であった。新鋭エンジンと江戸時代のようなバリキとのコントラストは異常なも姿で、子供でさえ「これでいいのだろうか?」と首を傾げたものである。六ッ浦から大船に通ずる途中の相武隧道はこの工場の疎開地下工場として片側が使われた。

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