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「川と海から」-119.

ゼロ戦争搭乗員悲劇の地・杉田の山中

 

 正確な位置はで地元でも知られていないが、昭和20年2月16日、杉田の山林(栗木か中里あたりかも知れない)に落下傘降下した海軍のゼロ戦搭乗員が、米軍飛行士と錯覚した地元警防団員により殴打撲殺されてしまうという事件が起こった。以下は文春文庫「大空の決戦(羽切松雄著)」による。

 この日早朝機動部隊が銚子沖に接近し艦載機が多数横浜方面に向かうとの情報が追浜海軍航空隊に入った。たちまち紫電改やゼロ戦が迎撃に飛び立ち、東京湾上空でグラマンF6Fヘルキャットの群れと激しい空中戦を展開した。著者羽切氏は小隊長として紫電改に搭乗し、その編隊の中にゼロ戦の山崎卓上飛曹がいた。迎撃戦で敵機5機を撃墜したが、こちらも山崎機のゼロ戦が一機未帰還となった。「空戦中に被弾、操縦不能となったので愛機から飛び出し落下傘降下して杉田付近の山林に落下したのが僚機から目撃された。ところが落下傘が木の枝に引っかかり、地上に飛び降りることができず宙吊りになっているところを土地の警防団に米軍飛行士と見間違えられて撲殺されたのである」。「被弾して洩れた油にまみれ敵味方の識別困難という事情はあったが戦死でなく、日本人に誤って殺されたのは惜しみても余りある最後であった。私どもは二度とこのような悲惨な事故をくり返さないよう、飛行服や飛行帽に大小いくつかの日の丸を縫いつけて味方をはっきりさせたのであった。このことがたちまち全海軍に知れわたり、飛行服に必須のマ-クとして着用を義務づけられたのであった」。

 識別困難だったのはおそらく燃料や火炎で全身が汚染していたためだろうが、山崎上飛曹からの応答があればこのようなことがなかったはずで、すでに絶命していたのかあるいは衝撃で意識を失っていたかであろう。

 当時米軍飛行士に対するこの種の行為は艦載機が非武装市民に対して無差別機銃掃射をしていたことへの復讐として各地であったことと想像される。戦後軍事裁判に付されることを恐れた住民としては事件を闇から闇に葬り記憶から抹消してしまったことも無理ではない。杉田周辺の聞き取りをやっても事実は不明のままである。この事件を航空隊の中でどう始末したか、また遺族たちへどう通知したか、など著者がすでに他界しているので調べようがない。

 8月15日終戦当日午前九時半ころ横浜南部上空で空中戦の末現港南区芹ケ谷に落下傘降下した米軍飛行士を地元民多数が縛り上げ、あわや撲殺という寸前に駆けつけた地元町会長若林亮平氏がオ-ト三輪で大岡警察署へ運び込んだ苦労話(「永野郷土誌」所載)はその一例である。

 すでに17年4月18日空母ホ-ネットから飛び立ったB25による日本本土初空襲のとき、名古屋市を無差別爆撃した搭乗員17名を東海軍管区は処刑していたし一般市民にとっては国際法や戦時捕虜の殊遇は無知であった。なにより当時の日本人は捕虜になる前に自決と教えられていたから米軍搭乗員への暴行も一概に責めるわけに行くまい(東海軍管区事件における司令官岡田中将の言動や極東軍事裁判の虚構性については大岡昇平「ながい旅」を一読されたい)。

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