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「川と海から」-120.

横浜海軍航空隊とその最後

 

 今の富岡総合公園は戦時中の横浜海軍航空隊(浜空)の跡の一部である。昭和12年3月にここのクツモ海岸を埋め立て、追浜の横須賀海軍航空隊から分離して開設された。開隊式には土地買収に応じた地主、近隣小学校の生徒たちも招かれ記念の絵はがきも発行された。三階建ての兵舎と三棟の格納庫のある日本最初の水上飛行機訓練基地でもあった。富岡に日本で初めての水上飛行機と飛行艇専門の航空隊が生まれたのはここが横須賀軍港に近く根岸湾が穏やかだったこと、また周囲が木立に覆われて軍機保護に適していたこと、東京からのアクセスが便利だったこと、などが理由である。赤トンボと親しまれた練習機の離水・着水の訓練状況は対岸の根岸海岸からもよく見えた。

 ここに配備された飛行艇(初期は97式飛行艇、後期にはこれに2式大艇が加わる)は航続距離の長さを利して北はアリュ-シャン、南はガダルカナルまで偵察や補給に活躍した。飛行艇は元来輸送機であるが、航続距離が陸上機に比べて長く、また滑走路が不要のため遠距離爆撃にも使われ、昭和17年3月3日マ-シシャル群島基地の浜空所属2式大艇二機が潜水艦による長波誘導や燃料補給を受けながらハワイを空襲しそれぞれ250キロ爆弾4発を投じたこともある(ただこのときは暗雲に妨げられ戦果はなかった)。

 飛行艇は敵戦闘機に捕捉されると戦闘能力や防御力が弱いため海面すれすれに降下して逃げるしかなく、また図体が巨大なので空襲時には絶好の標的となり、護衛戦闘機不足の戦況で浜空の要員・機材の犠牲は次第に多くなって行った。昭和17年8月6日ガダルカナル島北方のフロリダ島ツラギ基地に進出していた浜空は米軍の奇襲攻撃で玉砕し、飛行艇部隊が壊滅したが(大艇隊350名、水上戦闘機隊60名が4名以外戦死)、瀬戸内の香川県丸亀近くの詫間で再建された(801空、詫間空と名称変更)。しかしそのころは米機動部隊が本土周辺に迫っていて危険が大で、またソ連の参戦もあって、詫間には輸送用に改造された「晴空」1機と損傷した2式大艇2機を残しただけで、他は隠岐ノ島、能登半島七尾の避退基地に分散された。敗戦時七尾にあった3機が詫間に集結することにことになったが、松江近くの中ノ海に不時着。現地処分を命じられた搭乗員たちは大艇の機銃を降ろし泣きながら射撃して大艇を中ノ海に沈め、村人たちも合掌して大艇の最後を葬った。

 20年11月11日詫間からは一機だけ米艦隊で埋まる東京湾上空に飛来し根岸に着水した。これが根岸の海で2式大艇を見た最後である。米国で調査されるため船積みされた大艇は、米国専門家の専門的調査の結果当時の世界で最優秀の評価を得て「エミリ-」の愛称でノ-フォ-ク海軍基地にコク-ンと呼ばれる保護樹脂に包まれ保存された。昭和54年7月13日アメリカから返還され東京の「海の博物館」に展示されるようになった。今は海上自衛隊鹿屋航空基地に教材として移管されている。

 日辻常雄「最後の飛行艇」(朝日ソノラマ)、碇義朗「最後の二式大艇」(文芸春秋)、北出大太「奇跡の飛行艇」(光人社)などご参照ください。

 国道16号線「鳥見塚」バス停から入るとしばらくして石づくりの旧正門がある(海軍は海から入る方を正門とする習慣があったのでここは正式には「裏門」である)。その先右側に「浜空神社」が鎮座しているが、開隊と同時に伊勢山皇大神宮を勧請したものである。航空隊の守護神として古事記の「天鳥船」に由来する「鳥船神社」であったが、戦没航空隊員2000柱が祀られてから「浜空神社」と呼ばれるようになった。境内には飛行艇会会員による由来石碑と毎年ここで行われている慰霊祭にささげられた旧隊員の高齢化により維持が困難になり現在は追浜の雷神社境内に移されている。ここの境内の一隅に次の漢詩を刻んだ鎮魂碑がある。

 

題濱空

大鵬渡海奏奇妙功

離島守防意気隆

衆寡難勝嗟惨々

至誠不抜憶濱空

昭和四十六年十月二十一日ソロモン、ガブツ島ニ於テ

               草鹿任一花押

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 横浜航空隊跡周辺は県立富岡総合公園、各種工場・県警第一機動隊敷地などに変貌しかつての面影がないが、機動隊敷地の広壮な格納庫(間口170メ-トル、奥行き70メ-トルで内部に入ると巨大なアングルが目に飛び込む)はほとんどの鉄扉は開かないもののよく保存され、機動隊員輸送車、指揮車など警備用車両の車庫となっている。

 敷地の端の万代塀下には艦艇の「もやい綱」を巻いた鉄柱(ダヴィッド)が残されていて旧海岸線を示し、また敷地北端には海辺から富岡公園丘陵方向に伸びる二本のレ-ル(弾薬・燃料などの危険物を裏山地下倉庫に搬入するためのものか?)が当時のままで残されている。

 格納庫前のエプロンも大部分は機動隊訓練のためアスファルトを上乗せしてあるが部分的に旧飛行場当時の粗いコンクリ-ト面が露出している。県警の説明では取り壊し費用が莫大になる上に耐震性もまだ大丈夫なので活用しているという。市内においては日吉の連合艦隊司令部地下壕と並ぶ貴重な戦争遺跡であり、今後とも保存したいものである。

 またここは機動隊が使用する前は当時のPD工場たる杉田の「日飛」と地続きでのためアメリカ軍に接収され、軍用機の修理をしていた。格納庫に隣接する低層作業場の上部には「PAINT SHOP」「WHEELVEHICLE SHOP」「WELDING SHOP」などのペンキ文字が薄れながら残っていてその痕跡を示している。(2007.3.21 葛城他が実地検分し記録保存)。

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