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「川と海から」-121.富岡周辺のあれこれ

 

 昭和2年10月横浜市に区制が施行されたときの磯子区の南限は現在と同じく杉田までだったが、昭和11年10月に六浦荘村・金沢町が吸収されて磯子区の範囲は更に南に拡がった。戦時中の金沢地区の発展のため戦後の昭和23年5月15日に拡張区域が「金沢区」として独立し、磯子区はもとの範囲に戻った。

 富岡地区は北の久良岐郡からの影響と南の近代横須賀からとの両面の風を受け来た。戦国時代から江戸期までここは笹下に本拠を置く「間宮氏」の支配下にあった。北隣の杉田に間宮氏の杉田陣屋があり、後北条の最大の敵は房総里見氏である。そのため小田原・玉縄の主力部隊を防衛する海岸第一線には武勇をもって鳴る間宮一族が配置された。杉田陣屋・森陣屋がこれである。間宮氏はまた武田氏に仕えた頃から水軍も擁しており、のち三浦三崎においては「御船手四人衆」の一人に数えられていたほどである。富岡は高台が海に迫るとともに船倉(戦闘用の船の格納場所)としても絶好の地形を呈し間宮水軍の根拠地でもあった。里見氏との「湾岸戦争」の記録は地元柳下氏一族所蔵の里見からの戦利品の槍その他によって伝えられている。

 またここは風光明媚の地としてもも知られ、多くの顕官(伊藤博文・大鳥圭介・井上馨・松方正義・三条実美・伊東巳代治)・芸術家(川合玉堂・鏑木清方)が来遊したり別荘を建てるなどの高級住宅地でもあった。

 明治以降の西欧に追いつけ追い越せの国策で設立された横須賀造船所・海軍工廠・航空技術工廠などの軍事生産施設の北上につれ、この地域は工場要員の供給、軍需工場の新設などにより急激な変貌を見た。谷津坂の大日本兵器、杉田の日本飛行機・石川島航空発動機などがこれであるが、横須賀航空隊の水上機部門として誕生した横浜海軍航空隊(現在の富岡公園一帯)もその一つである。太平洋戦争開始後は警戒厳重な「要塞地帯」として地形図も販売されず、周辺の丘陵には海軍の対空陣地が建設され、市民の立入禁止の場所が次々と設けられた。(戦後はそれらが民需に転換したためかつての面影を留めぬほど変った。例えば野球で有名な横浜高校はこの地にあった大日本兵器の徴用工宿舎を転用したものである)

 

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