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磯子区郷土史研究ネットワーク
「川と海から」-122.
青砥左衛門尉藤綱の伝承について
鎌倉の滑川で十文の銭を落とした青砥左衛門藤綱が五十文のたいまつを買って川浚いして探させた逸話は有名だが、富岡の青砥に大正14年12月設置の高さ158センチメ-トルの緑泥片岩製の立派な「藤綱之墓」がある。加藤某氏の建立になるものだが、その音の類似と青砥という地名に結びつけた牽強付会のものである。藤綱が実在人物かどうかは不明で、この説話も中国古典の焼きなおしである。ましてこの地に墓があるはずがない。
港北区にも青砥の地名があり東京にも「京成青砥」がある。隣接する杉田の小名に「大戸」があるが富岡の青砥も「大戸」であり、新編武蔵風土記稿には「大戸山」と記されている。この辺は起伏の多い丘陵と入り組んだ谷戸が多く、そのうちの大き目の谷戸が「大戸」である。各地の大戸が藤綱伝承の誘因によって青砥になったのであろう。
大戸はさらに遡れば「凹処(おうと)」であったかもしれない。これも谷戸のことで「窪」「久保」と同じ意味である。そもそも地名は「音」が先行し、その後に適当な漢字が当てはめられたのだから地名の多くは「振り漢字」である。表意文字たる漢字はそれ自体で特定の情報を放射しているため文字面で判断することは誤解のもとになり慎まなければならない。地元の古老たちがこの碑を無視しているのも賢明と言うべきであろう。
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