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「川と海から」-040.

稲荷山遺跡と根岸台地の貝塚たち

 

 

 よりよき未来を模索する手がかりたる歴史学習は、時間軸のスパンをどのように取るかで様相が一変する。横浜の「今」は開港150年の中で見るか、縄文5000年の中で見るかで手がかりに天地雲泥の差がある。開港以来の視点では世界的に類を見ない江戸時代の文化熟成を無視した黒船一辺倒の歴史認識しか生まれない。旧石器2万数千年の中の瞬間に過ぎぬ部分を肥大化した近現史などおよそ意味がなかろう。

 昭和60年2月に刊行された「中区史」は市内各区の区史の中で一番豪華版だが、文明開化の光芒に幻惑されたせいか古代中世を全く除外した「中区開港史」に過ぎず、中区民に歴史の本道を見誤まらせるものである。市教育委員会刊行の小学校社会科副読本「よこはまの歴史」が巻頭に横浜開港を置き。全体の4分の三を経過して初めて原始古代史が現れるのと同工異曲で、子供のときから歴史認識を誤らせるものである。

 根岸の台地には海に近い部分に縄文時代からの遺跡があちこちに散見される。加曽台、稲荷坂(米軍住宅の収地)、平台(緑ケ丘高校敷地北側)、測候所・外人墓地周辺、元町琴平神社裏、フエリス女学校通用門横斜面、坂ノ台(寺久保)などがこれで、古東京湾が内陸部に細く入り込んでいた中で海中に突出した細長い半島状の台地の海に近い各所に古代人の生活のあとを留めた。明治初年の根岸堀割川の掘削までは根岸台地との間は蒔田・岡村台地とひとつづきで、縄文人たちは横浜南部の丘陵地帯を往来しながら猪や鹿を仕留めたり食用植物を採取したりしながら移動していたのであろう。市内の他の遺跡同様本格的調査や保存がされないまま破壊されたところが多いが、出土品は市内の他の遺跡にくらべれば貧しい。稲作農耕が始まっても用水や平坦地に乏しいこの丘陵にはさしたる出土品も発見されず大きな古墳は見ることができないが。

 

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