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「川と海から」-039.蒔田吉良氏

 

 

 伊勢新九郎は戦国の勇者として関東に勢力を伸ばし小田原を本拠に相模東部においては玉縄城(JR大船駅北側の清泉女子大キャンパスがその跡)をその出先機関として精鋭武士団(玉縄衆)を置いた。

 後北條一族の氏繁は竜珠院を再興して兵站基地にするとともに平子氏を越後に移し吉良氏を登用して蒔田城に布陣せしめた。また平子氏のあとも宝生寺を維持、戦略地点を拠点に活発な活動をした。

 吉良氏と平子氏との政権交代は余り混乱もなく行われたようだが、これにより平子氏時代の記録は宝生寺蔵の文書を除いて喪失された。吉良氏は武力よりも京都の公家勢力と関係が深く、宮中儀礼や慣習に熟達していたため、対中央政策に腐心した後北条氏にとって貴重な人材であった。

 そのためここ吉良領においては軍役や調達を敢えて行っていない。吉良氏は財政も豊かだったらしく天文元年(1532)に鶴ケ岡八幡宮の新築にあたっては五万人を動員して杉・ひのきなどの用材を杉田浦に陸揚げし鎌倉に運んだと記録されているが、どこから切り出しどの経路で輸送したか不明である。たぶん上総の八幡宮領からか切り出して小櫃川に放流し、木更津から筏に組んで杉田浦に運び、ここで一次加工した上でさらに海路を三浦半島沖経由で輸送し、材木座で陸揚げしたのではなかろうか。

 三殿台からは吉良氏の蒔田城と菩提寺勝国寺が見えるが、この地は「徳川300年の泰平」の前に平子400年と吉良80年の合計480年の長期間にわたって戦火や収奪に縁の遠い平穏な時代を享受したのである。(参考/小田原衆所領役帳)「PAX平子・吉良」の特殊な事情についてはさらに考察が必要であろう。

 

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