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「川と海から」-038.

宝生寺(真言宗・青龍山宝金剛院宝生寺)

 

 

 山かげで見えないが、中世の平子郷本拠地から外界への通路を押える場所(「堀の内」とは豪族の館を示す)の横浜有数の名刹で広い境内(宝生寺分4253坪、弘誓院分1559坪計5812坪)は神奈川県天然記念物寺林に指定されており町なかと思えない静かな雰囲気を残している。

 中世は平子氏の砦となり、またその一族が住職を勤めた。石川談議所・石川宝金剛院とも呼ばれたが「石川」はこのあたりまでの広い地域だったことがわかる。平子氏関係・後北条氏関係文書も多く残され、先日亡くなられた石井光太郎氏の手で「横浜文書」としてまとめられている。

 その中で嘉吉2年(1442・室町時代)横浜村薬師堂免田寄進状(横浜市指定文化財)は「横浜」の名が初めて文書上に表われたものとして名高いが、最近郷土史家松沢常男氏は筆写じに改竄があったと異説を唱えている。

 本尊は木造大日如来坐像(県指定文化財)で堂々たる威容を見せているが、これはもと鎌倉覚園寺境内にあった大楽寺(廃寺)の本尊で、ここに移ったのは大楽寺と宝生寺が平子という共通項で結ばれていたためではないかと佐伯真光前住職は言う(大楽はタイラグと読めるし平子を大楽と表記する例も多い)。元和10年の幕府の寺社管理政策の結果宝生寺はは末寺51を数える大寺院となった。本堂は延宝年間(1673~80)に再築したものだが梵鐘は幸いにも「特別保存梵鐘」として大戦中も供出を免除された。

 先先先代佐伯妙智住職は移住朝鮮人に対し日本人同様一視同仁の心惇く、大正12年の関東大震災で虐殺された横浜市内朝鮮人の慰霊碑建立に力を貸し「殉難韓国人慰霊碑」の建立のため境内を提供もした。大震災の翌年13年からは毎年その日に供養を欠かさず今日に至っている。

 ちなみに妙智老師はいずれ寺を継ぐべき孫の真光師をキリスト教を校是とする関東学院に入学させ敢えて「異教」を学ばせたのである。真光師はその後ハ-バ-ド大学に入学し世界を視野に入れた宗教学を修めたが後年はイザヤ・ベンダソンこと山本七平氏とユダヤ教に関する論争をするほどの碩学となった。現世利益を掲げる真言宗寺院にしては稀有のことと言うべきだろう。

 昭17年4月18日ド-リットル爆撃隊の日本初空襲のとき堀ノ内町では平屋二棟(三世帯)が焼失、寺山にも焼夷弾数発落下し、また昭和20年4月15日~16日に境内に焼夷弾数十個が落下、飛び火によって長屋門が焼失した。堀ノ内・睦・東蒔田の大半が罹災したが、その罹災者救護のため昭和25年まで延200もの人々をこの寺の内に収容した。

 ここは南区だが「磯子七福神」の一つになっている。七福神は下記のような配置だが、これは昭和初期の真言系各寺院が共同で始めたいわば「合同販促キャンペ-ン」のようなもので、七福神のいずれかと歴史的なかかわりのあるのは平子有長が自分に似せて彫らせた伝承がある磯子真照寺の毘沙門天くらいのものである。中にはご本尊さまを差し置いて七福神の一つを本尊扱いにしているところもあるが、この宝生寺では七福神については縁起でも全く触れていない。見識と言うべきであろう。

 【参考】磯子七福神一覧

◆真照寺(禅馬山三郷院)‥‥毘沙門天阿弥陀如来

◆金剛院(医王山)‥‥‥‥‥大黒薬師如来

◆金蔵院(海向山岩松寺)‥‥弁財天薬師如来・如意輪観音

◆宝生寺(青竜山)‥‥‥‥‥寿老人大日如来

◆密蔵院(竜頭山明王寺)‥‥布袋尊  不動明王

◆弘誓院(妙法山観世音寺)‥福禄寿聖観世音

◆宝積寺(不動院)‥‥‥‥‥恵比寿不動明王

 

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