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「川と海から」-041.

山本周五郎と「季節のない町」・中村町界隈

 

 

甲州の繭の仲買人の子として生まれた彼は家運が傾いて親とともに上京、間もなく同業者の集まる横浜に転居した。中区久保町に住み戸部小学校、のちに学区変更により西前小学校に通った。幼くして文才を示した彼は西前小学校の三年生のとき担任の先生から小説家になれと言われたことがあった。その後東京に転居し木挽町の質屋「山本周五郎商店」に奉公したが、主人はこの好学の少年を庇護し正則英語学校や大原簿記学校に通わせるなど物心両面におけるよき理解者・支援者となった。文名があがるや彼は主人を自分の父以上に「真実の父」として敬愛し、ペンネ-ムも主人の名前をそのまま借用し「山本周五郎」とした。

 敗戦翌年2月に大森の馬込から本牧元町に第二の夫人と新居を構えた。隣家のラジオの音がうるさいので間門の旅館「間門園」の一室を仕事場にし、昭和30年秋からは一段上にある別棟を借り受けた。「家庭の暖かさは文学の敵」と言って元日に家に帰る以外は間門園に一人住まいの執筆生活を送った。42年の終焉までの21年をこの地で過ごしたわけで、後半生の「柳橋物語」「樅の木は残った」「赤ひげ診療譚」「季節のない町」「さぶ」「ながい坂」などの名作はここで生み出されたのである。執筆の合間に根岸の丘やその周辺を散歩するのが常で、間門から豆口台に上るか八幡橋へ向かうかのどちらかであった。贔屓の飲み場は関内の「やなぎ」、井土ケ谷の「町田家」などだったが、その他日本橋、磯子にもあった。 昭和39年12月にこの坂の階段で滑って肋骨二本を折ったが、それ以降急速に体調を崩し、総決算のつもりで書き始めた朝日新聞日曜版小説「おごそかな渇き」を八回分まで書いたところで、数日来の大雪のあがった昭和42年2月14日に間門園において63歳で他界した。今は間門園も取り壊されて昔の仕事部屋を思わせるものもなく、またその頃の根岸の海を想像することもできなくなった。

 「青べか物語」は浦安の漁場の日常庶民の世界を活写したが、「季節のない町」は中村町、南区八幡町、三吉町という大都会横浜の発展に取り残された周辺の名もない庶民たちの生活を生き生きと描き出した傑作で、地名こそ明記していないが開港以来の虚栄に満ちた横浜の「史家に書かれざるもうひとつの真実」として市民の必読書であろう。「私がこれらの人たちにもっとも人間らしい人間性を感ずるのは、その日のかてを得るため、いつもぎりぎりの生活に追われているから、虚飾で人の目をくらましたり自分を偽ったりする暇も金もない、ありのままの自分をさらけ出している、というところにあると思う(作者)」「こころ滅びる夜にゆっくりと読まるべきもののひとつ。文章の背後のそれほど遠くない場所につつましくかくされたものを読み取る静かな目、この世のにがさに多少なりとも訓練を受けたことのある人なら誰にでもわかる作品(開高健)」。

 

 

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