top of page

「川と海から」-042.「平楽」と平子氏

 

 

 鎌倉の御家人「平子氏」は磯子の真照寺あたりに館を構えて禅馬郷を直轄支配し、後北条時代の江戸攻略の頃まで横浜南部一帯を領していた。石井光太郎氏が山形県伊佐沢町(現長井市)で新しい系図を発見して以来、平子氏の出自を三浦党とするのが通説だが、系図はそのときどきの都合でつくられるのだからそれをもって事実とするには難があり、武蔵七党のひとつ横山党から出たとする古くからの説も捨て難いものがある。恐らく三浦半島から北上を目指す三浦一族と多摩丘陵方面から武相南部と海への進出をはかる横山党が婚交し、このあたりに土着したのではなかろうか。

 磯子方面(禅馬郷)は嫡子流が治め、本牧台地は庶子流が支配した。堀ノ内の古刹宝生寺は平子氏関係の中世古文書が多く蔵されているがその中に「武州本目・石川知行、石川二郎経長」の名がある。これが根岸本牧方面の支配者であろう。もっとも「石川」とは現在の石川町周辺に留まらず中村・蒔田方面までの広い部分を指していた。今の地名「平楽」は「たいらぐ」の当て字で、他に「太楽」と記載されたこともある。宝生寺の故佐伯真光師は平子氏と真言密教との関係を想像され密教教典「理趣教」の「太楽」との符合に注目しておられた。 平家追討以降の関東御家人の「西遷」で今の山口市周辺に土着した「周防平子氏」、越後の上杉・長尾傘下の武将となり上杉氏の会津転封に随伴したと思われる「越後平子氏」や「出羽平子氏」、出自不明ながら名取を領していた三浦義村との何らかの関係を推測させる「磐城平子氏」(ここには平安期の貴種流離伝承もあるが)など、横浜を起点とした「平子ネットワ-ク」の存在が注目されている。 後北条氏の横浜方面進出にともない横浜の平子氏は越後に退転し、そのあとは吉良氏が蒔田勝国寺裏英和女学校周辺の蒔田城に拠って近隣を支配するが、平子氏はこのとき初めて突如越後に移動したのではなく、その三百年ぐらい前から一族の平子氏が小千谷・直江津方面で活発な活動をしており武蔵平子氏ともよく連携していたものと思われる。

平楽中学校の前に地もとの人々が昭和54年に建立した「赤塚の碑」があり、ここを平子広長一族の塚と言い伝えられていると説明されているが、広長は平子氏の嫡流で本拠は磯子(真照寺が館あとか)と伝えられており、丘陵のこのあたりは弟の石川経長の支配下にあったと思われるので、この碑文は若干説明不足である。

 

bottom of page