top of page

「川と海から」-085.横浜港

 

 横浜港については言うべきことが多すぎるので省略し次のことだけにとどめる。幕末の開港条約で神奈川開港は決められたが「神奈川」とは具体的にどこを指すのか明らかでなかった。外国外交官たちはそれが「神奈川宿」であることを当然のこととしていたが、東海道幹線のこの宿場の地先の海に外国船が直接接岸することを忌避する幕府は、あえて詭弁を用いて「横浜村も神奈川の一部」と称し、現在の横浜港周辺の土地に居留地・港湾設備を作ったのである。外交団と幕府との折衝は例によって幕府側の「ぶらかし戦術(あいまいなことを言い立て言質を取られないようにする)」で領事たちを憤慨させたが、同じ外国人でもアジア各地から横浜に上陸した冒険商人たちは神奈川より横浜の方が港湾としてはるかに適地と判断し領事たちを尻目にさっさと横浜村に移り住んでしまった。自陣内での裏切りで領事たちは激怒したが、現実は神奈川宿沖には等深線が沖合い遠く伸びており(つまり遠浅であり)、横浜村の沖は海浜近くまで海底が深いことを商人たちがよく知っていて、岸壁・桟橋の建設に好適であると考えていたためであろうか。

 此の周辺の海深についてはペルリの二度の来航の都度綿密な測量を繰り返しており、領事たちもその実態を知らなかったわけはない。築港適地かどうかという基本事項について論じないで両者とも政治的次元でのみ交渉していたことはどう考えても不思議である。加藤祐三氏は幕府官僚の巧妙な作戦とするが、果たしてそれだけなのであろうか。

 

bottom of page