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「川と海から」-086.内防波堤と赤灯台

 

 横浜港は明治20年から29年にかけてイギリス人技師パ-マ-の設計監督によって第一次築港工事が行われた(功労者パ-マ-の銅像は野毛山公園にある)。この間の明治22年には東海道線が全線開通しこれによって海上運輸も大きな刺激を受けた。また同年4月に「市町村制施行」によって横浜は「区」から「市」となり、新興都市の面目にかけて港湾整備に着手したのである。幕末1863年の下関戦争でアメリカに支払った弁償金が過大であったとして後になって返還を受けることになり、その内の78万5千ドルが工事資金となった。中央桟橋、南桟橋を囲む四半分の円弧を基本とし、神奈川沖からの北水堤、堀川河口からの東水堤の二本の防波堤によって関内から神奈川までの水面が囲いこまれ、波浪の恐れのない安定した投錨地・接岸地が確保された。この結果世界でも有数の国際港になった。港口にあたる水堤の突端には赤白一対の鉄製灯台が設置された。桟橋から眺める巨大な客船はこの灯台を門柱として入り来たり遠ざかって行った。現在北水堤の赤色灯台は瑞穂埠頭から伸びる当初の水堤の先端の位置に保存されているが、山下埠頭からの東水堤突端にあった白色灯台は山下公園の氷川丸乗船口桟橋の先端に移されている。両水堤は陸地との接点部分が今は埠頭に取り込まれているが、往時の港域を示す貴重な土木遺産である。またこの水堤に使われたコンクリ-ト塊2個はやはり土木記念物として本牧市民公園に保存展示されている。

 

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