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「川と海から」-084.新山下貯木場跡

 

 横浜港の輸入商品の一つである木材は、生産地で加工後に船積みされる昨今と違ってほとんど原木のまま海を渡り横浜に荷揚げされた。通関や販売先決定までの期間は港近辺に保管場所が必要であるが、特定の場所がないため公有水面や河川に放置されることが多かった。大正3~7年の第一次世界大戦の景気興隆、大震災後の復旧資材で港湾内の木材滞留が極度に達し、流出したり船舶に衝突して破損させたりする不祥事が絶えなかった。木材の種類によっては長期の海水の浸潤が材質を悪化させるものもある。昭和3年に貯木場建設が市会で承認されたが世界的経済の激変で放置され、昭和5年12月にようやく着工にこぎつけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 昭和5~6年の大不況時には景気振興のため保管中の木材に倉庫証券を発行しこれを担保として銀行が融資するという制度がスタ-トしたが、これを受けて貯木量の拡大をはかるため設計が大きく修正された。新山下貯木場の新設により輸入木材は一定の場所と水質で管理できるようになり業界の発展とユ-ザ-の利便に大いに寄与した。貯木場は約40万平方メ-トルの面積を誇り、干潮満潮の潮位に対応して曳き船の出入ができるよう二か所に閘門を設けた。パナマ運河のそれのように閘門部分での注排水で水位を調整しながら木材の移動を行うのである。貯木場の廃止、埋立にともない閘門設備は無用のものとなったが土木遺産としてもとの位置に温存されているのは嬉しい。

 昭和15年には東京で世界オリンピックが開かれる機運が高まり横浜港内はヨットレ-ス会場に予定された。急遽貯木場一帯に競技施設が新設され瀟洒なクラブハウスも設置された。ところが戦争への道を歩みはじめた結果「幻のオリンピック」となり、ヨットハ-バ-は戦時色を深めて「海洋道場」に転用された。市内各小学校に「海洋少年団」がつくられ、水兵帽をかぶった子供たちがここで海軍下士官あがりの指導員の指揮下で手旗信号やカッタ-の猛練習をした。

 戦後はそれまでの原木のままの輸入から生産地で下加工した半製品が輸入されるようになったので水面利用の貯木施設は不要になった。新山下貯木場は埋め立てられ金沢木材港に席を譲ったが、金沢でも木材への対応の必要が少なくなってレジャ-・スポ-ツ用のヨット基地「横浜ベイサイド・マリ-ナ」に変貌した。平成7年7月に金沢の貯木場あとには「白帆町」という新町名がつけられたが、これは江戸時代からの帆船の白帆ではなくヨットの白い帆のことである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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