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「川と海から」-083.野球場の変遷

 

 関東大震災のあとの新山下埋立地には野球場もできて市民に喜ばれたこともある。前出「新山下ものがたり」の紹介する当時の新聞(横浜毎朝新報・大13.11.6)にはこういう記事がある。みだしには「根岸刑務所跡へ大運動場を設置、落成するまでは新山下の埋立地を一時借り入れ」とある。

 「横浜公園のグラウンドを唯一の球場として使用しつつあった横浜の同好家は、関東大震災後は同グラウンドが諸建築物のために潰され、現在は横浜商業、第三中学、高等商業などの敷地を借り受け僅かに練習試合を為しつつあるのが現状で、市民体育の向上練磨に面白からぬ現象を来すとして、市当局も考慮の末、根岸町刑務所跡を借り入れ、又は払い下げを受け、大運動場たらしむべく計画中であるが、市会議員の山本光三郎、尾上町の会田藤次郎氏、其の他二・三人が協議の結果、刑務所跡の運動場落成まで市参事会員戸井嘉作氏を通して新山下町の横浜埋立会社と交渉を開始し、同社の所有6千坪を借り受て大グラウンドを建設することを5日、同社と契約し、近く新山下グラウンドの実現を見ることになった」。

 また11月24日には「新設すべき根岸刑務所跡3万坪の大運動場は、東京明治神宮裏の新設トラックを模倣し、野球フィルドに総ての新設計を施して遺憾無く横浜市の大運動場を形成するはずである」との記事もある。同紙は「横浜高工・横浜高商定期野球戦史」から次の記事も引用している。「滝頭グラウンドで行われたその年の定期戦は熱戦そのもので、数万の観衆は両軍の一球一球ごとに歓声をあげた。ところがこのグランドの隣に横浜の塵芥処理場があり、全市内から集められている生の塵芥が山のように積んであったため、梅雨で繁殖した数十万のハエの大軍が風に乗って観覧席に舞い降り、それを追い払う観衆の扇子が外野席からいっせいに動き出し、ハエの移動につれて時ならぬ白扇の波が内野席に向かって押し寄せるという奇観を呈した」。

 これらの記事によると、根岸監獄は震災で倒壊したのち笹下に移転がきまったものの「前川分譲地」となるまでの間に「大運動場」を建設する計画があったようである。これがなぜかご破産になった結果、民間に売却となったようだ。上記の高工・高商戦の行なわれた「滝頭グラウンド」とは震災後の都心部倒壊塵芥の埋立で生れた根岸埋立地(現在の原町、鳳町)のことである。

 

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